死について考える昭和40年男。

昨日は先輩の通夜だった。かつては黒を着るのが結婚式ばかりだったのに、最近では悲しい方が増える一方だ。「こうした場所で会うのは嫌なものですね」と、ご無沙汰してしまっている方々と挨拶を交わした。

癌だった。一昨年の夏に術後の見舞いに行ったときは克服を宣言していたのだが、今年に入って転移が見つかったそうだ。医学は日々進歩しているのに、癌というのは本当に厄介である。

昨日の葬儀は今まで経験したことのない別れ方だった。20人程度が一斉に部屋に通される。花に囲まれた棺が中央に置かれていて、線香の香りはしない。棺の前に置かれたモニターに生前の姿が映し出され、彼が刻んできた人生が紹介される。ニール・ヤングが好きだったとのことで、明るい曲をチョイスしたのがかえって悲しい演出になっていた。故人と対面して献花し手を合わせ、ご家族にお悔やみを申し上げる。と、そんな流れで参列者たちは1人ひとり別れを惜しんだ。過ごした時間を思い出しながらしばしの時間をぼんやりと会場で過ごした。ニール・ヤングの話をすればよかったと変な後悔をしながら会場を後にしたのだった。

生まれて死ぬ。どんなに努力しようが命は必ず途切れる。わかっているのに前を向かせてくれる生命とはなんと尊いのだろう。だが病気はそれを折り、強い挫折もそれを折ることがある。心と体に負担ばかりがかかる現代社会において、タフでいることは至極大変なことだ。愛ある日々を過ごすこと。笑いある日々を過ごすこと。努力ある日々を過ごすこと。これらはきっとタフな自分に繋がって行く。でははたして、先輩にそれが足りなかったかといえばそんなことはまったくなく、むしろそれらが満ち満ちた人だった。逆らえないのも生命の真理だ。

僕はどんな死を迎えるのだろう。今まで歩んできた人生において、毎日迎える今日がもっともそこに近い。強く意識せねば。

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