【昭和50年男のリアル】俳優 小林タカ鹿

小林タカ鹿

放送開始17年目を迎えた大人気ラジオドラマ『NISSAN あ、安部礼司 ~BEYOND THE AVERAGE~』。神保町で働くごく普通のサラリーマン・安部礼司を演じるのが俳優の小林タカ鹿だ。安部礼司にも通じる飄々とした風情は、どのような半生から醸し出されたのだろうか。
 

作品を全く観ないまま演劇に目覚めました

2022年春で放送開始から17年目、すなわちシーズン17を迎えた『NISSAN あ、安部礼司 ~BEYOND THE AVERAGE~』(TOKYO FM) は、日曜日の夕方という穏やかな時間帯に流れるラジオ番組だ。タイトルのとおり、ごくごく普通のサラリーマン・安部礼司が日常生活で遭遇するさまざまな出来事を、少し懐かしいツボな音楽と共に綴るコメディラジオドラマである。日本全国に熱狂的なファンをもち、’15年には日本武道館でイベントも開催された。

安部礼司を演じる俳優の小林タカ鹿は、東京生まれ東京育ちの 昭和50年男。生まれ育ったのは巣鴨と大塚の間、最寄りの大都会は池袋という都会っ子だ。だが、少年時代の遊び方は思いのほかネイチャー感あふれるものだった。

「家に小さな庭があって、すぐ隣の神社にも草むらがありました。庭にでっかいカエルがいたとか、カマキリの卵を見つけたとか、そういう “ギリ” 自然に触れるのが楽しい子供でした」

遊び方が変わったのはファミコンが登場した頃。当然、小林少年もゲームに熱中する。特にハマったのは『ドラゴンクエストⅢ そして伝説へ…』だった。

「でも、ファミコンから先のスーファミとかプレステには進まなかったんです。友達の家でやったPCエンジンにちょっと触れたぐらいで、ゲームはほとんどやらなくなりました」

中学ではバスケットボール部、高校ではハンドボール部に入る。スポーツに熱く打ち込んだ青春のようだが…。

「バスケ部は自分の代が4人しかいなくて、新入生をメンバーに入れなければいけないから練習試合でもボロ負け。高校のハンドボール部は、僕の担任の先生が放課後に残っていた1年生を集めて作ったような部ですごく弱かった。つまり、スポーツの部活に入る度にすごく弱いんですよ。だから、だんだん『俺はスポーツの神様に愛されていないな』という感覚になったんです」

スポーツで点数を競い合って勝負すること自体に疑問をもってしまった小林は、学習院大学進学後、勝ち負けのない世界にいこうと思って演劇部に入部。しかし、それまでに生の演劇を観たのは学校の鑑賞会での一度きり。しかも印象に残ったのは、役者の頭から落ちたカツラだった。

「作品を観ないで演劇に目覚めたから、あの俳優みたいになりたいとか、こんな作品を演じたいというのが一切ありませんでした。ただ、舞台で演じることが楽しそうだった。だけど、大学の演劇部に入ったら、周りはすごく本を読んでいたり、映画を観ていたりする。ショックを受けて、あわてて作品に触れるようになりました」

ちなみに大学に入るまで映画も小説も興味をもたなかったのは、「自分の方がおもしろい」という勝手な思い込みがあったからなのだそう。マンガも『少年ジャンプ』を小中学生の頃に読んでいた程度で、高校に入る頃はマンガ自体読まなくなっていた。

大学で演劇に打ち込んでいるうちに大学3年になり、周りが就活を始めるなか、小林は演劇の神様に自分を委ねてみようと考える。

「とにかくオーディションを受けてみようと思ったんです。何にも引っかからなかったら、演劇の神様に愛されていないのだからやめればいいと考えていました。そこで引っかかって、劇団に入ることになったんです。じゃ、続けていいのかなと思って、結果として20年以上続いている感じですね」

その時オーディションを受けたのは、4本の脚本を上演するオムニバス作品『ラフカット’96』のうち、以前観ておもしろいと思ったナイロン100℃のケラリーノ・サンドロヴィッチ作『13000/2』。見事合格した小林は、初めて商業演劇の舞台を踏む。

「その流れで劇団に呼ばれて、そのまま入りました。これはすごいことになったぞ!という感覚はありませんでしたね。笑いが好きで、演劇をやるなら人を笑わせたいと思っていたのでナイロン100℃に入ったのですが、歴史とかを知らずにひょいと途中で飛び込んだので、すごいところに飛び込んだという感覚はさほどないんですよ。入った後も、生意気だと思いますが、打ちのめされた感じはなくて、ヘラヘラしているうちになんとかなっていたんです」

小林タカ鹿
▲10月に東京大阪で公演されたミュージカル『SERI ~ひとつのいのち』より

さらっと話す小林だが、決して誰にでもできることではない。「自分はおもしろい」という気持ちをキープしていたというだけに、自己肯定感が強いのでは?とたずねると、ご両親のエピソードを教えてくれた。

「僕が中学生ぐらいの頃に父が脱サラをして、天ぷら屋を出したんです。店はうまくいかなかったのですが、その間も両親は幸せそうにしていて、楽しそうにやってるな、と思って見ていました。“好きなことをやっていいんだ” と “好きなことをしてもなんとかなるもんだ” という感覚をそこでもつことができたんだと思います」
 

地方で感じた『安部礼司』ファンの熱

その後、お笑い以外の芝居もやってみたいと考えてナイロン100℃を退団。大学の先輩でもある演出家の 倉持 裕 (ゆたか) と共に劇団「ペンギンプルペイルパイルズ」を旗揚げする。そして、バイトをしながら演劇を続けていた頃にめぐり合ったのが『NISSAN あ、安部礼司 ~BEYOND THE AVERAGE~』(以下、『安部礼司』) だった。

「作家が二人いるのですが、そのうちの一人、村上大樹 (ひろき) さん (劇団「拙者ムニエル」主宰) は一緒に舞台をやったことのある小劇場の人で、オーディションに声をかけてくれました。村上さんはちょっと僕をイメージして書いたと言ってくれたんです。特徴のないことが特徴という役ができそうだと思われたんでしょうね」

オーディションに合格し、翌週から収録開始。『安部礼司』はあわただしいスタートだった。

「『なるほど、こういう感じか』と演じながらつかんでいきました。でも、イメージしてくれていたおかげなのか、『どうやればいいんだろう?』と悩んだりはしませんでしたね」

長く続くとは思わなかったそうだが、『安部礼司』は瞬く間に人気番組になる。しかし、反響にはなかなか気がつかなかったという。反響を実感したのは地方でイベントを行うようになってからだった。

「東京で暮らしている人と、地方で暮らしている人のラジオへの接し方はちょっと違うんです。地方はクルマ文化で、クルマでラジオを聴いている人がすごく多い。日曜にクルマで出かけた帰りに家族で聴いている人たちも多くて、家族の輪のなかで安部礼司が話題になったりするんです。その温かみを地方イベントで感じました」

『安部礼司』のイベントは素のトークもあれば、ドラマもあり、コロナ禍の前は直接交流を深めることもあった。小林は、イベントでリスナーに会うと元気をもらえるという。それを実感したのが、初めてリスナーと触れ合った沖縄への旅だった。

「24時間だけ沖縄に滞在するという企画があったのですが、ハードスケジュールだったし、おまけにユタ (占い師) に本名を見てもらったら『よくない』と言われて落ち込んで (笑) 。地元の局でラジオに出る頃はかなりしんどかったのですが、リスナーに会ったらすごく元気になったんですよ。元気をもらうって、こういうことか!って (笑) 。僕らもそういう存在でいたいとあらためて思った出来事でしたね」
 

東日本大震災で感じた “当たり前” の大切さ

すでに17年目に突入している『安部礼司』。これほど長く、しかも毎週一つの役柄を演じるのは俳優にとって稀なこと。変化についてたずねると、小林自身が安部礼司に寄っている部分があるという。

「僕自身がゆるくなっている感じがあります (笑) 。もともとズボラなところとか、ダメなところがあるんですけど、イベントで盛大な出トチリをしたり、新幹線に荷物を置き忘れてしまったりすることが『安部礼司』の現場で起きているんです。でも、それを笑い話にしてしまっているのが安部礼司的ですね (笑) 。世の中もそれでいいんじゃないかと思っています。少しぐらいゆるくなってくれれば」

リスナー層にも如実に変化が表れているという。

「だんだんファミリーに届いていっている感じがあります。昔はお父さんのクルマで聴いていた子供が、『社会人になりました』と言ってきたりする。『小学生の頃に聴いていて、安部さんと同じサラリーマンになりました』と言われたこともありました (笑) 」

17年の間で、特に深く印象に残っているのは、東日本大震災。連日、テレビで震災の様子が伝えられるなか、リスナーとの距離が近いラジオの力がクローズアップされた時期でもあった。

「以前から岩手との関わりが強かったこともあって、復興の時期に陸前高田で、津波がきたラインに桜を植えるイベントに参加したりしました。釜石でイベントをやった時は寒いなか、たくさん集まってくれましたね。全国ネットなので、東北以外の地域の方も聴いているわけですけど、“しんどい時はみんなで一緒に” という気持ちで聴いてくれた方も多かったと思いますし、逆に “しんどい時だからこそ、いつもどおりに番組をやってくれてよかった” という声もありました。つらい気持ちを抱えている人に寄り添うことはできたんじゃないかなと思います。結局、日常の連続じゃないですか、人生って。当たり前のことが当たり前じゃなくなった時、当たり前のことをやっていることが意味や価値をもったのではないでしょうか。“変わらない” ことも大切なんだな、って」

NISSAN あ、安部礼司~BEYOND THE AVERAGE~ 放送400回突破記念大感謝祭 「安部魂(あべコン)」
NISSAN あ、安部礼司~BEYOND THE AVERAGE~ 放送400回突破記念大感謝祭 「安部魂(あべコン)」
▲2013年 12月22日に日産自動車グローバル本社ギャラリーにて開催された、放送400回突破記念大感謝祭 「安部魂 (あべコン) 」より (写真提供: TOKYO FM)
 

“これが普通” だと誰にも決められなくていい

小林タカ鹿

言うまでもなく安部礼司には “AVERAGE=普通” という意味を含んでいるが、だからといって安部礼司が誰にとっても “普通” ではないと小林は強調する。

「安部礼司はグループリーダーを任されたことがありますし、子供と家族もいて “全然平均的じゃない” という意見もあります。でも、何が平均か本当はわからないんですよ。それぞれの “普通” があっていいんだよ、と受け止めてくれたらうれしいですね」

そもそも小林自身、“普通” という言葉があまり好きではないらしい。

「“人類皆変態” と言っているんですけど (笑) 。基本的にどんなに真面目な顔をしてしゃべっていても、全員性癖は違うじゃないですか? そんなものだと思って人間は見ておいた方がいい。だから、“これが普通なんだ” と誰にも決められなくていいし、決めなくてもいいと思っています。みんな違ってみんないい、みんな変態でみんないい、ってことです (笑) 」

今後はもちろん長く続けていきたいと小林は語る。

「定年するのかな?とか、介護の話になるのかな?とか、一人の人生として描かれていくならおもしろいですよね。これほど長く続いたのは、安部礼司がみんなにとってちょうどいい存在だったからなんだと思います。“そうそう、これを待っていた!” というほどではない (笑) 。長く続くことで、“いていいんだよ” と言ってくれている気がします」

最後に『安部礼司』から離れて、俳優・小林タカ鹿の今後の展望についてたずねてみると、実に “らしい” 答えが返ってきた。

「展望や大志を抱くことはそんなにありません。こうなるべきとか、こうなりたいとか、○○みたいになりたいと思わずに生きてきたから、これからも瞬間、瞬間を楽しく生きてたいと思います。人生って、物事や人が次々と目の前にやってきて、去っていくじゃないですか。ならば、目の前にいる間に、人や出来事に対していちばん楽しいことができるように生きていきたいんです。結局、人にやさしくするのって、その人が目の前にいる時しかできないと思うので、そういう生き方を続けていくんじゃないかと思っています。やっぱり、どんどん安部礼司に寄っていってますね (笑) 」
 

取材・文: 大山くまお  撮影: 松蔭浩之

大山くまお / 昭和47年生まれ。ライター・編集。著書に『名言のクスリ箱 心が折れそうなときに力をくれる言葉 200』(SB新書)、『「呪術廻戦」の強さを手に入れる言葉』(あさ出版)など。中日ドラゴンズファン。
 


PROFILE

小林タカ鹿 / こばやしたかしか

昭和50年、東京生まれの俳優。1997年より劇団「ナイロン100℃」に参加し、在団中はすべての作品に出演。2000年の退団後、2001年から「ペンギンプルペイルパイルズ」の劇団員として活動。2006年 4月にスタートしたラジオドラマ『NISSAN あ、安部礼司 ~BEYOND THE AVERAGE~』では主役の安部礼司を演じ、現在も放送中。

『NISSAN あ、安部礼司 ~BEYOND THE AVEREGE~』公式サイト


最新INFORMATION

年に一度、オンラインでつながる安部礼司リスナーの祭典「オンラインフェスティバル ABE Tube 2023 ~未来のサラリーマン~」が、今年も開催されます。2023年 1月8日 (日) の午後4時から無料でLIVE配信され、生ラジオドラマはもちろん、豪華企画あり、豪華ゲストありの盛りだくさんの内容です。テーマは「未来のサラリーマン」。新時代の生き方を安部礼司とアップデートしましょう!!

詳しい内容は、特設サイトをご覧ください。

『ABE Tube 2023 ~未来のサラリーマン~』特設サイト
 

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