川内康範 〜昭和ヒーロー再探訪。

昨日つぶやいたミッションにより、自分自身も知識をブラッシュアップできた。作業は決してラクなものでなかったものの、今後の編集作業には大げさに言えば財産を得たことになる。そんな中で、昭和ヒーローを語る上で絶対に欠かすことはできない1人の川内康範さんにまつわる情報もいくつか整理することができた。

 

ご存知、『月光仮面』の生みの親だ。僕ら世代にはあまり近しい存在ではないヒーローだが、その後のヒーローへと繋がる起点の1つだ。そこには、敗戦から立ち上がろうとする強いスピリットが内包されていた。

 

月光仮面の放送当初はテレビ映画との呼び方で、俺たち世代にはちょっとピンとこない言葉かもしれない。特撮やアニメという便利なのは後になって使われるようになった言葉で、俺たち世代はすべてをテレビマンガと呼んでいたのではなかろうか。『ウルトラマン』や『仮面ライダー』を特撮なんて洒落た呼び方はしていなかった。

 

テレビ映画を作ると意地になってくださったのが、川内康範さんと制作にあたった宣弘社の小林社長だった。当時のコンテンツはアメリカから輸入されたものが多く、アニメなんかでも『チキチキマシン猛レース』や♪ラリホーラリホーラリルレロンの不思議な主題歌が懐かしの『スーパースリー』などなど、再放送で何度もなんども観た番組が多い。そんな中で小林氏は、アメリカから輸入されているもので独占させている。占領状態から脱却するのだと制作記者会見でぶちあげたそうだ。川内氏も外貨流出を食い止めるみたいな発言をしたらしい。うむうむ、なんか戦後復興の意志まで感じさせられるエピソードだ。『月光仮面』の初回放送が昭和33年の2月24日だ。この年は暮れに東京タワーが完成する年で、なんだか偶然だけでない片付けたくない気がする。とんでもない低予算で作られていたそうだが、それでも子供たちの元気のために必死になった。しばしば小林氏の自宅で撮影を敢行したなんてエピソードも残っていて、低予算だろうがなんだろうが情熱は通じるもので、当時のガキどもに絶大な人気を誇った。

 

川内康範作品と俺たち世代の接点といえば、なんといっても昭和47年に始まった『愛の戦士レインボーマン』だろう。これも今回のイベントで調べていて思い出したのだが、この年の元旦にダブルライダーがそろい踏みした。そして同じくこの年、仮面ライダーカードに狂っていた俺たちだ。戻そう、レインボーマンはすべてが強烈だった。ライダーとはまったく世界観の異なる作品は、子供心に鋭さを感じた。死ね死ね団の歌も鋭すぎる(笑)。一昨日のイベントでは、川内氏の強い平和への願いや、日本人の意識に対する危機感が作品に現れていたことを伝えた。知れば知るほど、あふれるような人類愛の人だったように感じられた。うーむ、一度お会いしたかった人物である。

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