死について考える。〜その1 思いがけない友人の死〜

おっといきなり重いタイトルだなとビックリしたでしょう。
というのも…。

副編小笠原とこのブログについての編集会議が昨日行なわれた。
「もっと人となりがガンガン出た方がいいっすよ」
うんそうだよね。
具体的にどうしようとなり
“パブリックなテーマを拾い上げて編集長なりに斬ればいい”
とのアドバイスをもらったところから始まって、コンセンサスにまで持っていった。

政治ネタはあまり無責任にはできないので
もう少しライトな話題をつかまえていかねばならないなあ。
古いもので例にすると、朝青龍くらいならいいのかなあ?
JALの問題はどうかな?
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悩み尽きぬ。

加えて
「日常から何を感じたかを斬ればいいのではないか」とも。
桜の満開とか、通りかかった公園で遊ぶ子供たちの表情とか?
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 ・
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やはり悩み尽きぬ。

ずいぶんと長いこと付き合っているこのコーナーであるが、
人から見れば駄文であったとしても、自分のなかでのウエイトは決して軽くない。
出版社のサイトだからとか、雑誌のブランドを背負っているからとか、
もっともらしいことで逃げている部分もあるのかも知れないけれど。

「もっとラクに構えていいと思いますよ」
これも小笠原からのアドバイスだ。
だが、少なくとも情報を生業にしている自分が、
情報を発信するということには責任が生じるわけだし…、うじうじ。
ともかく、このコーナーと自分のつき合いを長くしていくためには、
やはり相当な努力が必要ということだ。

長い前置きとなってしまったが、
現段階での雑誌づくりにおいては、それほどドラマチックな出会いがあるわけでないし、
どちらかというと地味な作業の日々が続く。
企画のための議論であったり、裏を取ったり、資料を揃えたり、
人を捜したりといった、重要ながらも細々した作業ばかりだ。
なので議論したとおりなんらかの切り方で文章をつづっていくのは、悪くはない。

そこでいきなり “死” かよ。
でもね、昭和40年男にとってはどんどん密接なテーマになっていませんか?
実は最近、こんな死に出くわしたんですよ。

1月も下旬に差しかかったこと、1通のハガキが届いた。
聞いたことのない女性が差出人で一瞬戸惑ったが、
宮崎に住む友の女房からだった。

“主人は去年の5月に亡くなりました。生前は大変お世話になりました”

簡単につづられたハガキだった。
宮崎と東京という距離ゆえ、ここ数年は会えずに互いに年賀状のやりとりだけになっていた。
“こっちに来ることがあったら会おう”
と、やはり互いに書き添えていた。
今年、ヤツから年賀状が届かなかったことを
別段気にかけることもなく過ごしていたところに、先のハガキが返事として届いたのだ。

ヤツは昭和37年生まれの3歳年上ではあるが、
かつての職場の同僚だ。
同じ居酒屋で働いていたのである。
俺はバンドでやっていくことを決意し、高校を卒業するとその居酒屋で稼いだ。
ヤツも生涯の仕事を見つけるまでの暫定期間のようなものだった。
そんな腰掛け同士のふたりだったが仕事には一生懸命で
店をよくするための議論を欠かさず、共にぶつかりながらも邁進したすばらしい友だった。
互いの夢に向けて歩み出し、別々の職場となったが
時折会っては議論や意見交換に花を咲かせていた。
が、ヤツが九州に住まいを変えてからは
ほとんど会えずに年賀状友達になってしまっていたのだ。

そこに突然、まったく理解できないことを知らされたわけだ。
悲しさというよりも、まったく飲み込めず、どうにもならなかった。
しばらくの時間を経て、春に九州でイベントの仕事があるから
そのときに焼香に行きたいと手紙を出した。
やがて連絡が入り、詳しいことはうかがったときに聞かせてもらうことにしたのだが、
ガンだったとのこと。

やっぱりヤツは死んだのだ。

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2件のコメント

  1. こんにちは。
    重い話ですが、身近に感じています。
    仕事をし始めたときの先輩方で51歳を迎えた人がいないんですよ。
    それはもう見事に次から次へ。
    自分はあと桜の花が咲くの何回見られるんだろうね、と思ったり。

    • 生きるということが本当にすばらしいと思うことって“なにか”の裏返しだったりします。ケガや病気で苦しんだとか、それこそ身近な人の死だったり、人間とはつくづく愚かなもの。でもだからこそ、頑張れたりもする。ありきたりですが、後悔しない日々をお互いすごしていきたいものですね。

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