ああ青春の合唱コンクール

昭和40年男の悲惨な戦い

昭和40年男の少年時代は、決して楽しいことばかりじゃなかった。今思えば笑っちゃうようなことでも、俺たちは真剣に悩み、戦っていた! ここではホロリと苦い「悲惨な戦いの記憶」を通じて、昭和40年代&50年代という時代を振り返ってみたい。

“おとこおんな”と罵倒され、漁師町のド演歌を魂の熱唱!

学校行事もいろいろあったけど、いちばんいらなかったのが合唱コンクール。アレに嬉々として参加する男は、ほとんどいなかったんじゃないだろうか。

とか言いながら俺は小学校時代、合唱部員だった。入りたかったわけじゃなく、県の合唱コンクールに出場するため、音楽教師が生徒を選抜して無理やり合唱部をつくったのだ。俺は当時流行したエレクトーンを習っていたため、選ばれてしまった。

最初は他の男子もいたが、結局俺以外みんな辞めて、男は俺ひとりになってしまった。ハーレム? 冗談じゃない!

当時、俺が育った千葉の田舎では、音楽をやる男は“男女(おとこおんな)”扱いだった。そして合唱部には、将来間違いなくスケバン(死語だね)になるガラの悪い女子が何人もいた!

「男のクセに合唱かよ気持ちわりーな男女!」
「こっち見んなよ男女!」

やつらは俺を罵倒した。俺も意地になって、辞めずに県のコンクールに出るまでがんばったけどさ、けっこうつらかったよ。

ちなみにコンクールではアイヌ民族をテーマにした課題曲を歌わされ、いい曲だと思った。でも歌詞の一部がアイヌ民族の身体的特徴を侮蔑しているってことで、その後問題になったそうだ。昔は子供にも、ヘビーな曲を合唱させてたわけだね。

中学に入ると部活の合唱からは解放されたが、今度はクラス対抗合唱コンクールがある。そして3年の時それは起こった。

その年の合唱コンクール用テキストは、地方で歌い継がれるド演歌みたいな曲ばかり。松田聖子もデビューして歌謡界も盛り上がるって時に、なんでド演歌を歌わにゃいかんのか。

最初、我が3年B組にあてがわれた曲はすごかった。お母さんが死んだ。シイタケやタケノコが好きだったお母さん。今は雑司ヶ谷のお墓の中に――うそ、お母さんはそこにはいない!

♪うそー、うそー、うそー!と歌わされたタイミングで、誰かが「ぶっ」と吹いたのを合図に全員大爆笑! そしたらピアノ伴奏の音楽教師Nが激怒、鍵盤をバーンとぶっ叩き叫んだ。

「お前ら全員バカだ!」

…結局「死んだお母さん」の歌はE組にあてがわれ、わがB組は「荒れる海に漁に出たまま帰らない夫と息子を呼ぶ母の歌」を歌うことになった。子を呼ぶ母の叫びが聞ごえねーが! とすごい内容の歌を、どこのド田舎の歌だよと思いつつ歌ったら3年6クラス中2位だった。特にうれしかった記憶もない。

高校に入っても、クラス対抗合唱コンクール地獄は続く。1年の課題曲は「地球を花で飾ってどうのこうの」と耳が浮きそうな平和ソング。そしてクラスは男子35人に対し女子は10人だけ。合唱において貴重な女子は歌唱に回さにゃならず、ピアノ伴奏は男子から出せと無茶ぶり。いるのかピアノ弾ける奴。

いた。体育館の隅に置かれたピアノで、クラスの男・H田がウッカリ『エリーゼのために』を弾いたのが運のツキ。満場一致でピアノはH田に決定!
だがある休み時間、話したこともなかったH田が、コソコソと俺のもとに来た。

「どうしよう、俺『エリーゼ〜』以外弾けないんだよ。伴奏なんてできないよ」

そーなんだ。で、俺に何か?

「大野(俺の本名)エレクトーンやってたんだよね」

げっ?真っ白になった俺の頭の中を、花で飾られた地球がグルグルと回り、気がつけば本番当日。舞台でピアノに向かう俺!
鍵盤を押した瞬間「ずいぶん重いな」と思ったのを覚えている(本番で思うな/エレクトーンの鍵盤は押せば音が出る)。
ちなみに1年9クラス中、我がH組はビリだった。俺のせいではない。合唱コンクールに合掌、ってキレイに(でもないか)まとめてる場合じゃない。

文:カベルナリア吉田

【「昭和40年男」vol.42(2017年4月号)掲載】

カベルナリア吉田/昭和40年、北海道生まれの紀行ライター。普段は沖縄や島を歩き、紀行文を書いている。11月にシニア向けの東京お散歩『おとなの「ひとり休日」行動計画』(WAVE出版)を発売。『何度行っても変わらない沖縄』(林檎プロモーション)と『突撃!島酒場』(イカロス出版)、『狙われた島』(アルファベータブックス)もヨロシク。 175cm×86kg、乙女座O型

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