ああ、大相撲。

3月場所中止ですか。ホントに残念でならないよ。年々、爺さんに近づいていく度に
興味が深まっていくのは、国技として長年刻まれてきた伝統に、日本人の魂が
揺さぶられるからなのかな。小さい頃、親父が夢中になって見ているのを不思議に
思っていた。あんなに太った醜い人(スミマセン)たちのスポーツなんてと、子供心にね。
ところがね、やはり加齢によるものなのでしょう。だんだんと注目するようになったのは、
見る目というか心が練り上げられた成長だととらえてよしとしていた。相撲に限ったこと
じゃなくて、興味の中心にあるものが流行ものでなく、連綿と続いてきた日本人の
心や伝統へと移行しているのだ。広がりはさらに海外の伝統なんかにも広がっていて、
いろんなものに興味尽きない、困った45歳である。

ただ、相撲には不満も感じていた。年々、星を取るための競技に変わりつつあること。
立ち会いの変化や、はたく相撲が増えてきているように感じていた。特に格下相手には
やってはならないはずで、かかってきなさい胸を貸してやるというのが相撲の精神では
ないのか。柔道がオリンピック競技として世界のスタンダードになるという、うれしい
過程の一方で、武道から点取りゲームに変わってしまったという例がある。

難しいところである。勝つために全力を尽くすのでなく、精神をまっとうするために全力を
尽くすのか? 後者であれば、そこに八百長とはいわないまでも、競技としての矛盾が
生じてしまう。だが僕はそれでいいのだと思っている。国技ですから(笑)。僕はかつて
剣道を習っていてその精神を嫌というほど叩き込まれた。充実した精神を持ってして
打ち込む一本にこそ旗が挙がるのであり、各部位を竹刀が当たることが一本ではないと。
そんな教育があってかもしれない、最近の競技相撲に不満を感じていた。

「人情相撲」という言葉もある。ついつい手を緩めてしまうという行為であるが、ここに
目くじらをたてて八百長だとするのもいかがなものか。今回許されないのは、金銭が
伴ったということでもちろん論外である。僕も大きな憤りを感じている。が、どちらも
八百長であり、異なるのは粋か否かであるのではないかと言いたい。相手を強くして
やるために星を譲るくらいの度量があるのが、強い先輩力士であってもいいはずなのでは
ないか?人情が働いてしまう力士がいてもいいのではないか? それが国技の国技たる
所以でありたいと願うのである。繰り返すが金銭で星を動かすのは絶対に許されない
行為であるが、今回の問題でもっと大きな根底にとらえてほしいのは、競技として
成立させるのか、それとも国技のままで日本人の精神性を尊ぶべきかである。
おそらく現代の世相から後者で落ち着かせることは難しいとは思うが、ポイントだけを
とらえて大切なものを失ってしまうのはこれまで続けてきた歴史をゴミ箱に葬り去ることに
なる。先に挙げた柔道がいい例である。ヒステリックに八百長八百長とだけ騒ぎ立てる
報道に、いつもながら情けなさを感じている。

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