カワサキの名車「Z」を作った男たち。

夕べは素晴らしい時間を過ごした。〆切作業をちょいと抜け出して、書籍『カワサキZの源流と奇跡』の出版記念パーティに参加してきたのだ。
カワサキ Z1カワサキのZとは1972年に発表された歴史的名車である。世界初となるDOHCエンジンを積み、画期的なメカニズムをふんだんに盛り込み、さらにこの秀逸なデザインとも相まって大ヒットした。40年以上を経た今も絶大な人気を誇るバイクで、現在ではプレミアムがついて高値で取引されている。ここを源流としてカワサキは次々にハイパフォーマンスのビックバイクを出し続け、そのイメージを決定づけた。世界のバイクの歴史上で、重要な意味を持つ1台である。

Zが登場するほんの数年前のこと。カワサキはバイク事業からの撤退をほぼ決定した。その決定に真っ向から立ち向かい、経営陣に日本がダメならアメリカで勝とうと直訴した若い男がいた。誰がやるんだとの問答になり「自分がやる」とアメリカに乗り込んだのが、今回の著者のひとり、浜脇洋二氏だ。アメリカで徹底的なマーケティング活動をおこない、市場が求めているバイクの原案を明石の開発現場に送り込む。その意見に対して要望以上に答えるようにと開発現場を指揮したのが、親密なお付き合いをいただいている、僕のバカ面と一緒に写っている大槻幸雄氏である。

大槻幸雄一時は撤退するとなっていたカワサキのバイク事業は、男たちのど根性で息を吹き返した。ど根性としたのは、開発現場の男たちとアメリカの販売の一線にいた男たちが、皆揃って口にする言葉だからだ。ホンダの開発陣の人数や技術に比べたら、圧倒的な差があったのに「打倒ホンダ」を掲げて昼夜を問わず働いた。諦めない気持ちを持ち、燃えたぎるような開発現場で大槻氏は「世界一」を語り始め、現場を鼓舞させた。そして生まれたのが、まさしく「世界一」のZなのだ。

清原明彦後発メーカーのカワサキに、奇跡が起きた要因の1つに、この男の存在も大きい。テストライダーを担当し、後にカワサキを背負ってサーキットで大活躍した清原明彦氏、通称キヨさんだ。中学を卒業後、カワサキの養成所に入って学び18歳からテストライダーになった。年上ばかりで、しかもエリート中のエリートが居並ぶ開発陣に、若きキヨさんはまったく臆することなく意見をぶつけた。その天才的な味付けは的確で、エリートたちはキヨさんの声をしっかりとマシンの作り込みに反映させていく。強い信頼関係で結ばれ、開発現場は最高のコンディションとなったのだ。今でも互いが互いを尊重しあい、横で見ていて清々しく感じる関係である。

2人とも僕にとっては、当てはまる言葉がないくらい大きな存在であり、影響を受けた人物である。2人以外にも、ど根性で仕事した男たちが多く集い、楽しい話をたっぷり聞けたのだった。僕も彼らに負けちゃならん。これは昭和40年男たちの共通テーマでもあるだろう。

Z1開発陣

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