昭和59年はどんな年?

次号の制作に追われる日々が続いていて、周囲のタメ年男たちに質問攻めしながら企画をひねり出している。風呂に入っても酒を呑んでも、企画のことが頭から離れないのは本来ならストレスに感じるのだろうが、ヘッチャラなのは雑誌づくりがトコトン好きだからだろう。夕べも編集部金子と次号特集の骨格について、延々としゃべっていた。これを呑み会とか宴とは言わない(笑)。

連載特集の『夢、あふれていた俺たちの時代』は昭和59年(1984年)を取り上げることにした。僕ら昭和40年男にとって、早生まれの先輩方には申し訳ないが同学年に限れば、大学進学、就職、浪人、プータローと人生の大きな選択を強いられた、人生で最も大きなターニングポイントを迎えた年だ。中学を出て就職する者や高校中退などのパターンもあるが、高校まではかなり高い確率で通った我々だ。昭和59年の3月に卒業して選んだ道が、きっと今に繋がっているだろう。もう28年も前のことになるのだから、歳をとるはずですな。

高校の同級生たちは、ほとんどが進学を選択した。僕は国立ロックンロール&ブルース大学へと進学するために日夜ギターをかき鳴らし、4月に晴れて入学したのだった。世間は僕のことを、なぜかプータローと呼んだが…。社会に出たという気持ちと、夢を追いかける希望に満ちあふれていた年が昭和59年だろう。学校の生活指導にはファッションの専門学校に行くために1年間金を貯めると大ウソをついたのが懐かしい。

大学に行っておしゃれになっていく友人たちとのギャップが広がっていったのを記憶している。世の中もバブルに向かい始めた頃で、高付加価値のものが次々に世の中を変えていった。DCブランドのブカブカのスーツをまとい、女の子にモテるためにクルマを調達して、話題のカフェバーへと行き、高級シティホテルでエッチする。これをポバイやホットドックプレスら男性誌が大いにあおり、赤いカードを目一杯活用して人生を謳歌していた人は多いだろう。後先考えないで消費する我々のすばらしい行動パターンが形成された。まさにイケイケドンドンだった。そんな中で居酒屋で油まみれになって働き、スタジオでおしゃれとはまったく無縁のドロドロしたロックを歌っていた僕にカフェバーなんか似合うはずもなく、ブルースっぽい香りがする街で焼き鳥とレバ刺が似合う男へと突き進んでいた。そんな僕でも、時代の勢いは感じることができていたのだから、相当すさまじいことだったのだ。

皆さんにとっても、いろんなことがあった年でしょう? 今夜は想い出めぐりの旅を楽しんでいただき、いい企画があったら編集部にご一報願います。

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2件のコメント

  1. この頃も自分は、ブカブカのDCブランドのスーツではなく、
    ピチピチのジーンズとTシャツ、愛読雑誌はポパイではなく、
    「週間FM」や「サウンド&レコーディング・マガジン」でした。
    時々「ムー」なんかも読んでましたし。(笑)

    • 僕もピチピチのジーンズが大好きで、いまだに貫いてますよ。「ムー」の世界は僕苦手でした。怖いんですもの。

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