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スーパーママチャリGP。みんなすごいぜ

2011 年 1 月 10 日 プロデューサー コメント

オーダーと作戦が発表され気合いが入る面々だ。
声出し担当の僕としてもうれしい限りで、調子に乗って先のオーダーで点呼をとってみた。
「イチ」「ニッ」「サン」「ダメダメ。遅いよ。もう一回」
なんてバカなことで盛り上がってしまうこの愛すべき面々と、
少々ギャグタッチではあるがレースを闘うのだ。
舞台は日本のモータリゼーションを支えてきた名門コースの1つである
富士スピードウェイなのだから、当の本人たちにはギャグどころか興奮しないはずがない。
レース前には国歌斉唱もあった。おーっ、国際レースなのね(笑)。
トップライダーである番長はさぞ緊張していることだろう、
ものすごい数のチャリンコが今スタートラインについているのである。
いやね、これほどの緊張感を持ってこのチャレンジを迎えることになるとは、夢にも思っていなかったよ。

 

この不思議なコミュニティはこの時点でチームになっていた。
昨晩ひたすら語り合ったことや、たかが1時間半ほどの散歩や早朝のマイナス5度の出発や…、
さまざまなことをすでに共有しているのである。
ひとつひとつはほんのささやかななことであり、見逃せばなんてことないことであり、
でもつかみ取ろうとする心を持っている面々なのだ。
こんな出会いを経験できるだろうか?
そうそうできるものではないが、しようと思えば容易にできる。
心のベクトルを向ければすてきな友はいつでもできるのだ。

 

おっと、脱線した。番長はスタートを切った。
2011年1月9日午前8時、俺たちの耐久レースが始まったのだ。
気持ちの高揚を胸の中で楽しみながら、ピットロードで番長の帰りを待った。
ドキドキドキ。全員がピットロードで待つ。
「きたーっ」
満面の笑みと汗、激しい呼吸が番長のがんばりを十二分に伝えてくれた。
そして金子監督が出て行った。
いい走りで一周を回り「きちーっ」と帰ってきて、小笠原にバトンを渡す。
順々にメンバーが出ていき、それぞれの精一杯の走りで帰ってくる。
うーん、これって高校時代に感じたあの甘酸っぱさと一緒だな。
そして僕の出番が近づいてくる。ひとつでも前に出たいと思い、緊張感を感じていた。

 

それとは別に嫌な気分もかかえていた
僕は大きな大きなトラウマをかかえているのだ。
昔々、大人数のキャンプでのこと。酔っぱらってマウンテンバイクを借り下り坂を走った。
想像以上のスピードにのりハンドルをガタガタとふられ、
気が付いたときは病院のレントゲン室だった。
そのときの医者が言った「この左腕は一生動かない」という言葉とシチュエーションは、
今も鮮明に記憶にある。キャンプ場付近の病院に入院するのは不便だと応急処置をしてもらい、
翌日地元の大きい病院に行くとそこもこのひどい状態の腕は治せないと言い、
整形外科を紹介すると点滴と応急処置で帰された。
動かないと宣言された腕へのショックと、大きな傷を負った顔からダラダラと流れ出る
体液に悩まされ一睡もできずさらに翌日、紹介された整形外科医院へと向かった。
通常外来で行ったつもりが受付に紹介状を渡すと緊急扱いで即入院となった。

 

まっ、結果としては僕の左腕は元気に動く。後遺症といえば左肘に残った縫い傷と、
少々カタチがいびつになってしまった程度で、しびれるとか寒いと痛いといったものもまったくない。
ただ、動かないと言われたショックとくだけた腕がグシャグシャと音を立てている気持ち悪さ、
手術の恐怖とリハビリのつらさなどなどたくさん、逆恨みのように
自転車に対するトラウマになってしまったのだ。その日以来、バイクで走っていても
下り坂に恐怖感を感じるようになった。『昭和40年男』第3号でやった北海道の旅でも
ある程度のスピードに乗るとブレーキをかけてしまうチキンぶりだった。

 

この富士スピードウェイは下りから入るコースである。
その不安感とチームを少しでも前に行かせたい緊張感でドキドキしながら程島さんの帰りを待った。
「きたーっ」
チーム員が叫んだ。ママチャリを受け取り、僕は走り始めたのだ。

 

続くよーん

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