宮城県の復興現状。

『昭和40年男』にとって、東日本大震災が起こった3月11日は特別な日だった。隔月発行を高らかに宣言した記念号の発売日だったのである。ところが、そんなポジティブな話題は不謹慎だと思ってしまうような日々になってしまった。さらに、自分のふざけた文章や企画を後悔してしまったほど、あのタイミングで書店に並んだことがつらかった。でも後悔ばかりしていたら『昭和40年男』じゃないと一念発起して、次の5月発売号から『俺たちの責務』という、重いタイトルの連載を開始した。このタイトルに込めたのは、社会の中間管理職者である我々昭和40年男が、少しでも復興の負担軽減につながるようにがんばろうという思いだ。

キッカケとなったのは、これより以前に取材したタメ年の医師である海外医療に奔走する川原氏が、震災を知り急遽被災地へと向かったとの情報からだった。医療の現場で役に立ちたいとのシンプルな行動は、落ち込んでいる場合じゃないことを気付かせてくれた。自分に出来ることをやろうと。僕の武器は雑誌なのであり、この『昭和40年男』なのである。だったらテレビや大メディアとは違ったカタチの伝え方で挑もうと、川原氏にコンタクトを取りインタビューを申し込んだのだ。

そして、現地を知らずしてインタビュー取材をしても、そこに血の通ったものにならないだろうと現地視察に出かけた。想像をはるかに超えた状況を見て、タメ年たちに伝えるべきだと、被災地の状況をレポート記事にすることにした。あのころを振り返って正直にいうと、川原氏の行動に影響を受けて勢いを付けたものの、心には大きなインパクトを負った。あまりにも想定外の光景を、2日間見続けたことと、記事にするために現地で苦しんでいる方々に土足で入り込んでいったことは、自分を疑ったり自問自答したりの連続であった。その度に奮い立たせていく方向に心を持っていかせることが、そのまま痛みになっていたのだ。

先週、4回目の取材に出かけてきた。目に映る光景に変化は見られるものの、まだまだである。エリアを広げすぎると散漫になってしまうのではないかと、宮城県に絞って回っているから他のエリアとの進捗状況の比較は出来ないが、宮城県に限っていうと、残念ながらまだ復興は始まったばかりどころか、これからといった状況である。写真は報道で何度か耳にしただろう、南三陸地域だ。美しい夕焼けを写したわけでなく、これはガレキの山で、こんな場所がアチコチにある。トラックが運び込み、ブルドーザーが積み上げていくその作業が、ただ単調に過ぎていた。次号で詳しく掲載するので、ぜひ目を通していただきたい。

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