「僕らの国でも」が響いてる。

梅は咲いたか、桜はまだかいな♪ときたもんだ。いやいや、そんな季節はもう遥か彼方かのごとく、初夏を感じる今日この頃はこいつが我が街の主役だ。きちんと季節の彩りを連れてきてくれる、花ってのはいいものですな。少しずつ春めいてきた頃の梅は冬と春まじりを表現して、いよいよ春到来の桜はブワッといく。そして初夏に向かって強く強く咲くのが今時期のツツジ、サツキだ。まさしく皐月の花である。

 

こう見えて、植物が大好きな少年だった。近所の花屋でタネを買ってきては育てた。電気屋の我が家において、日当たりのいい場所は店を開けていたから、育ちはいつもよくなかった。それでも自分で育てる醍醐味を感じて、毎春になると花屋の店頭で時間をかけて選んでいた。荒川区役所が近くて、隣接の公園で花を愛でる時間も大好きだった。ちょっと遠出すれば、上野公園や飛鳥山公園だ。この時期に咲き乱れるツツジを毎年心待ちにしていたのは、この花が好きなのと夏が近づいてきたことを実感できるからだ。そう、夏生まれの僕とってその7月とともに、このワクワク感のある5月は2大マンスリーなのである。

 

と、こんな悠長なことを考えられる今の我々は、どんだけ幸せなんだ。毎日テレビから流れてくる映像に、誰もが心を痛めながら日々を過ごしていることだろう。なぜ人間とはこうも愚かなのだ。希望を持てなんて口が裂けても言えないほどの絶望がそこにある。悔しいが何もできない俺たちだ。

 

コロナ以前のこと。「やっとの一歩を踏み出せ」という曲を書いた。サビの一節を「苦しみ抜いてるヤツにも なにかに怯えるヤツにも 真っ暗闇の俺たちにも 必ず朝は訪れる 平等なんてありえない 永遠なんてありえない 恐怖の中の俺たちにも 咲く一輪の花がある」とした。まるでコロナに対しての曲のようにシフトしたと思っていたが、今毎日見させられる映像に対してこの歌は、まるで陳腐なものに成り下がってしまった。映像から咲く一輪の花は見えない。伊集院 静 (伊達 歩) さんがレイジーのファイナルアルバムに提供した「僕らの国でも」が、40年以上経った今もそのままで響くのがなんともやるせない。花はトゲトゲした胸を少しだけ静めてくれるから、どうも今年はその時間が増えた。
 

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