松尾 “KC” 潔が眺めていた日本のR&Bの夜明け

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■日本で作られるR&Bの独自性

▲安室奈美恵『SWEET 19 BLUES』(’96) / ジャネット・ジャクソンを敬愛する安室の嗜好を反映させ、ブラックミュージックテイストを強めた2ndアルバム。総売上300万枚超

 
ISSAのソウルフルな歌声と高い身体能力を活かしたダンスで瞬く間にブレイクしたDA PUMP、和製マイケル・ジャクソンと称された三浦大知を中心に大きな注目を集めたFolderがデビュー。また、MAXがR&Bテイストに移行するなど、ブラックミュージックを志向するグループが続々と登場したのも97年。90年代半ばにプロデューサーとして全盛期を迎えていた小室哲哉がR&Bに接近したのもこの時期だ。最も象徴的なのは、96年にリリースされた安室奈美恵の「Don’t wanna cry」。MVに黒人のダンサーをフィーチャーしたこの曲によって彼女は、それまでのユーロビート路線からR&Bへのシフトチェンジを始めた。

「同じ年にリリースされたアルバム『SWEET 19 BLUES』もそうですが、その頃からR&Bに近づいていたんですよね。安室さんはもともとジャネット・ジャクソンを仰ぎ見ていたところもあるでしょうし、プロデューサーの小室さんもR&Bのトレンドを感じとっていたんだと思います。実はSPEEDの『BODY & SOUL』もそうなんですが、この時期のR&Bテイストの楽曲には、黒人の女性シンガーのコーラスが入ってることが多いんですよ。ミックスやサウンドメイクより先に、R&Bっぽくするには黒人のコーラス、という発想ですよね」

97年前後といえば、まだインターネットは浸透しておらず、海外のクリエイターの制作に関する情報を得るのは難しかったはず。日本の音楽制作者がアメリカのR&Bを想定して楽曲を作った場合、それは当然、日本独自のテイストを帯びることになった。そのプロセスのなかで生まれた独自性も、97年前後の J-R&Bの特徴だろう。

「最近では世界中のビートメイカーやプロデューサーが制作の過程を公開しているので、ほぼ同じクオリティのトラックを作ることができる。90年代後半はそうではなく、海外のR&Bと日本のJ-POPでは、サウンドメイクという観点において、大きな違いがあったと思います。ただ、日本特有の “井の中の蛙” によって、とんでもない名曲が生まれたのも事実でしょうね」

また、R&Bが徐々に浸透することによって、ソングライティングにも大きな変化が生じた。それまでの歌謡曲、J-POPは、作詞・作曲・編曲が分かれていて、メロディとコード進行を決めてから歌詞を乗せる、または歌詞を先に書き、ギターやピアノの弾き語りでメロディを付ける、という方法が主流。R&Bはそうではなく、ビートやトラック、サウンドメイクを先行させるやり方が中心で、そのスタイルに適応したクリエイターがR&Bのムーブメントをけん引することになったのだ。

「折口信夫 (大正~昭和時代の民俗学者、国語学者、歌人。著作に『古代研究』『死者の書』、歌集『海やまのあひだ』、詩集『古代感愛集』など) が “歌の語源は、うった (訴) ふ” と言っているように、日本における歌は言葉ありきだった。ところがR&Bはそうではなく、サウンドが優先。わかりやすく言うと作詞、作曲、編曲ではなく、編曲が先ということですね。まずトラックを用意し、トップライナーと呼ばれる人が歌詞とメロディを作るという順番。このスタイルで作られた最初のヒットは、おそらくUAの『情熱』(96年) ではないでしょうか。このあたりから少しずつ、海外と同じようにチームで楽曲を制作するケースも増えてきたように思います」
 

■いつの時代もスターが歴史を変えてきた

松尾自身も、LA&ベイビーフェイスやジャム&ルイスといった海外のプロデュースチームに憧れてきた時期があったという。実際、小室哲哉から共同プロデュースをもちかけられたこともあったのだとか。

「今だから言えますが、当時LAにあった小室さんの自宅兼スタジオに行き、北海道出身の女の子のグループを一緒にプロデュースしてほしいと依頼されたんです。その話は立ち消えになり、小室さんとの共同プロデュースの話もなくなりました。その時からですね、一人でプロデュースをやらないといけないと思い始めたのは。ちなみにその時の女の子たちは、楽器を持ち、後にZONEとしてデビューしました」

SPEEDがブラックミュージックを大衆になじませ、97年末をもって活動休止期間に入る安室奈美恵がR&Bに移行し、UAの制作チームがトラック、サウンド先行の楽曲をヒットさせ、DA PUMP、Folder がソウル、ファンクを軸にしたダンスとボーカルで人気を獲得。日本の音楽シーンで同時多発的に起きたR&Bの萌芽は、98年以降、大きく花を咲かせることになる。その時期の熱を現場で体感していた松尾が、プロデューサーとして才能を発揮し始めるのはまさに必然、時代の要請だったのだろう。松尾は98年にデビューしたDOUBLE、嶋野百恵、99年デビューの葛谷葉子の制作に関わり、その後、平井 堅、CHEMISTRYのプロデュースを担当。日本におけるR&Bの最重要プロデューサーとして大きな役割を果たす。海外における最先端のトレンドを取り入れ、日本のマーケットに適した楽曲に結びつける手腕は、90年代後半から現在に至るまで、J-R&Bの機軸になっていると言っても過言でないだろう。しかし松尾は「時代を変えるのは、あくまでも才能のあるスター」と断言する。

「いつの時代もスターがエンターテイメントの歴史を変えてきたし、それこそがポップカルチャーのすばらしさだと思います。業界が作った座組によってある程度ヒットを誘導することはできるかもしれませんが、基本的にはステージに立ち、歌う人に大衆は夢や希望を託す。本当の意味で歴史を動かすのは魅力にあふれた演者だし、日本のR&Bに関して言えば、やはりMISIAと宇多田ヒカルという才能の登場を待たなければならかったのだと思います」
 
  
※この記事は、
 『昭和50年男』2021年7月号/vol.011
 特集「1997年 邦楽レボリューション」より、再編集のうえ転載いたしました。
 


 

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