ライブとテクノロジーがもたらした音楽の大変革とは? 大阪万博〜コロナ後までじっくり考察。

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1970年開催の大阪万博とロックのカンブリア紀の到来!

 
命は尊い。ライブやイベントは止まる。もしくは条件付き。

そんな我慢の時ではありますが、

音楽文化とメディア・テクノロジーの関係について、とても興味深い文献と、私、Web担当Mは出会いました。

執筆されたのは、同志社大学の教授、太下義之先生です。

早速アポ取り。

「ぜひ、お会いしてお話ししましょう」と快いお返事が届きました。

先生からいただいた貴重なお話をみなさまへぜひとも伝えたい!

1970年に開催された大阪万博から現在まで、太下先生にじっくりと考察していただきます。
 

▲開催期間中の会場風景。中央に太陽の塔を望む。1970年4月撮影。(CC BY-SA 2.0)   Photo: takato marui

 
「1970年の大阪万博で上映された、映画『More』を通して、音楽を担当したピンク・フロイドの楽曲が流れたのを皆さんご存知ですか? そして、大阪万博をきっかけに、そのピンク・フロイドをはじめとした大物ミュージシャンの来日ラッシュが続いたことをご存知ですか?」

「一方で、英国では1970年前後に、ロックを耳にする機会が、あたかも生物大爆発が起きたカンブリア紀のように起こったのです」

と、太下先生は語りはじめました。

そのきっかけとなった大阪万博での出来事から振り返っていきましょう。

(聞き手/Web担当 M)
 


 
ピンク・フロイド来日と音響テクノロジーの進歩

[以下、太下義之先生・談 (本文中黒字)]
大阪万博開催の翌年となる1971年に、毎月のように大物ミュージシャンたちが来日していたことをみなさんは覚えていらっしゃるでしょうか? 万博を契機に、海外のレコード会社やミュージシャンたちが日本市場に目を向け始めたため、という背景もあったのでしょうけど、実はそれ以上に音響というテクノロジーが来日公演急増を支え、大きな要因となったと私は推測しています。

PA (コンサート音響) 業界で老舗企業であり国内最大手のヒビノ株式会社 (1964年設立) のWebサイトには、当時のエピソードが掲載されています。

 
1970
年、同社の創業者で自身も技術者である現会長・日比野宏明氏は大阪万博に出かけた際、万国博ホールで行われていた「セルジオ・メンデス&ブラジル ’66」のライブコンサートを体験。このコンサートで使用されていた音響機材は、アメリカの音響機器メーカーであるシュア社 (Shure1925年創業) のボーカルアンプ (スピーカーシステム) で、クリアでパワフルな音質であり、かつ非常にコンパクトな筐体であった。一方で、実は当時の日本ではまだ PA (Public Address) あるいは SR (Sound Reinforcement) という概念は確立しておらず、コンサートの際には各ホール据え付けの音響装置をそのまま使うのが一般的だった。しかし、シュアの機器であれば国内のコンサートや舞台の音響装置として売り込めると考えた日比野氏は、同年8月にはシュアの国内販売代理業務を開始したのである。

19714月、ヒビノはコンサート用音響機材のレンタルと設置・オペレートを行う専門部署として、新たにPA事業部を立ち上げたのです。当時、海外の一流アーティストの中には、「音」に徹底したこだわりを持ち、世界中のどの会場でも満足のいく音が出せるようにと、お気に入りのPA機材を本国から持ち込んだり、専属のPAスタッフをツアーに帯同させたりするケースが少なくなかったのです。でも、アーティスト側からすると、大型機材を持ち込む手間とコストを考えれば、現地調達できるに越したことはない。当時シュアをはじめとする輸入音響機材を持つ業者は数少なく、ヒビノのレンタルサービスはとても重宝される存在となっていったのです。

▲Shureボーカルマスターを用いたPAオペレートの様子 (1971)

出典:「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より要約

これが実証されたのが、国内外の人気アーティストが出演する大型野外フェスの日本における草分けであり、伝説のコンサートの一つとしても語り継がれている「箱根アフロディーテ」だったのです。


大阪万博開催の翌1971年、86日、7日の日間にわたって、箱根アフロディーテはニッポン放送主催で開催され、計万人もの観客を集めた。そして、このビッグイベントの大トリを務めたのが、初来日となったピンク・フロイド。ピンク・フロイドは英国のWatkinsElectronicMusic (通称WEM) 社製のスピーカーシステムを本国から持ち込んでいたのですが、野外ライブで十分な音を出すには本数が足りず、日比野氏が用意したシュアのスピーカーも併せて使うことになったのです。

アルバム『原子心母』のファースト・トラックが始まると、他の出演バンドとはまったく違う音の迫力に、多くの観客は驚嘆したという。

▲「箱根アフロディーテ」(1971)
▲「箱根アフロディーテ」のステージ両サイドに設置したShureトーンゾイレ型スピーカー

出典:「ゴールなき頂を求めて 挑戦こそが我らの誇り ヒビノ株式会社50年史」より要約

このように、ピンク・フロイドが初来日した箱根アフロディーテは、日本の音楽史上において、特筆すべきコンサートとなり、その後、来日公演ラッシュの幕開けとったのです。これも大阪万博における音響テクノロジーと一人のエンジニアの出会いがあったからだったのです。
 

日本人アーティストが海外進出するきっかけに

そして、大阪万博がもたらした効果は、海外ミュージシャンの来日ラッシュだけではない。日本のロック・バンドの海外進出に関しても、大阪万博が契機となっているのです。

フラワー・トラヴェリン・バンドのWebサイトには、当時のエピソードが掲載されています。


1970712日~19日 大阪万博会場のお祭り広場で開催されたパフォーマンス・イベント「ミニマル・サウンド・オブ・ライダー」に日本のロック・バンド、フラワー・トラヴェリン・バンドが出演しました。バンドのメンバーは、イベント期間中に万博カナダ館のイベント出演のため来日していたブラスロック・バンド、ライトハウス (Lighthouse) と親交を深め、これがカナダ遠征のきっかけとなり、翌1971年に、フラワー・トラヴェリン・バンドは世界最大の音楽市場を抱える、アメリカのアトランティックレコードと契約したのです。4月に2ndアルバム 『SATORI』、シングル 「SATORI part1/ SATORI part」をリリースした。このシングルは、アメリカとカナダでリリースされ、「SATORI part2」はトロントのローカル・チャートの第位にランクされるヒットとなりました。

▲フラワー・トラヴェリン・バンド『SATORI part2』(1971) /ボーカルはジョー山中、ギターは石間秀樹

出典:「フラワー・トラヴェリン・バンド公式サイト」より要約

この『SATORI』は、無国籍風の旋律を奏でる独創的なスライド・ギターとハイ・トーンのボーカルが音楽的な特徴となっていますが、それ以外に、全曲の歌詞が英語であるという点も大きな特徴として指摘できます。これは、同アルバムのプロデューサーであった内田裕也氏のアイデアとされているのです。
 

リスナーにとって、同日に開局したFM大阪の存在も大きい

さらに、大阪万博の開幕と同日にFM大阪が放送を開始したことにも注目していただきたい。この音質の良いFM放送で流れる音楽を、リスナー個人がラジカセを通じてカセットテープに録音する “エアチェック” と呼ばれる新しい文化的作法が急速に普及していったのです。そして、アーカイブされた音楽を何度も聴き返すという音楽的体験は、多数のコアな音楽ファンを生み出し、友人とシェアするという文化も育んでいきました。前述した海外ミュージシャンの来日ラッシュという現象が生じた背景には、万博開催と同時期に開局したFM放送を通じた多数のコアな音楽ファンの生成という、需要側の要因も見逃すことはできないのです。

1970年代は、ものすごい多様な音楽表現が出てくるのです。私はこれをロックのカンブリア紀と呼んでいます。カンブリア紀って生物が目を持ったんです。爆発的に進化したんです。このカンブリア紀と同様に、当時のリスナーやミュージシャンたちが を持って、音楽、特にロック・ミュージックに対する感性とリテラシーを劇的に向上させたのです。

なぜかと言うと、1967年まで英国では ニードルタイムと呼ばれる規制があり、ラジオで時間までしかレコードを再生することができなかったのです。だから、1960年代は規制のかからない海賊放送が盛んだったのです。

その後、規制が撤廃されて、1967年からBBCがラジオという番組でロックをガンガン流すようになりました。そして、ジョン・ピールのような有名なディスク・ジョッキーもこのBBCのラジオに参画したのです。このようにして、当時のリスナーやミュージシャンたちが同時代の最先端のロックを浴びるように聴き始めて、相互に触発されていき、先進的で多様な表現のグループが続出するロックのカンブリア紀を迎えたのだと私は考察しています。

当時、日本はある意味、音楽で言うと、少し後進国だったのかもしれません。でも、大阪万博をきっかけに、英国等からロック・ミュージシャンが大勢来日するようになり、ロックのカンブリア紀の影響を受けたのだと思います。ライブで、レコードから、メディアから。我々がいろんな音楽を聴く耳を持ったことで、多様な表現が爆発したのです。
 


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(次ページへ続く → ’80年代後半はヒットチャートで1位量産の時代 [2/5] )

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