ありがとうユーミン! 「苗場公演」「ファンの前で」ライブにこだわる、そのワケは?

座布団に座って楽しむ!? 初のリゾートコンサート

「SURF&SNOW in Naeba」の第1回は、苗場プリンスホテルにあるワールドカップロッジのレストランで開催された。「レストランのイスを並べて、ステージの前つらは座布団を敷いて観るスタイルです。ステージも今から考えればぐっとシンプルなものでした」と荒木は述懐する。収容人員は300人程度。ゲレンデに面した大きな窓をホリゾントにして、ライトアップされた雪景色が見えるようになっていた。そして、翌年からも苗場でのコンサートを継続することになり、荒木は大学4年の時に、イベント会社を立ち上げることになる。

▲「SURF&SNOW in Naeba」の運営を手がけるのはこの方。キャピタルヴィレッジ代表・荒木伸泰氏 Photo_Mazda

「あの頃、学生の起業ブームがあったんです。僕も会社には就職せず自分で会社を立ち上げて、企画制作をやっていこうと決心しました。それが弊社の始まりです。以来、雲母社さんと一緒に、ユーミンの苗場コンサートをやらせていただいています。何より松任谷 (正隆) さんの『ここで楽しいことをやって行こうよ』という精神があったから、これまで続けてこられたんです」

 1980年代半ばにワールドカップロッジのレストランは改装され、収容人員もグッと増えた。88年の Vol.8ではユーミンがゴンドラに乗って登場し、スモークやレーザー光線まで駆使する派手な演出も行われた。89年の Vol.9ではステージ上にモニターの壁を作り、映像と実際のパフォーマンスを融合させる試みもあった。これらの演出は、その後の彼女のコンサートツアーにも応用されていく。ユーミンのド派手なステージでの数々の画期的なアイデアは、苗場での実験あってのものなのだ。

  Vol.9からは Vol.39まで続く、8日間公演となった。92年の Vol.12からは、この年完成した4号館のブリザーディウムで開催されている。プロデューサーの松任谷正隆が、毎年、形を変えて斬新なアイデアを出し、それが具現化していく。時にはこんなイベントも。

「16年の時はステージにバーカウンターを設置して、開演前にバンドメンバーたちがドリンクを作って、お客さんはそれを飲んで開演までのひと時を過ごす、というアイデアを考案されました。12年には、ホテル全体を巨大な客船に見立てました。ブリザーディウムが客船のボールルームといったコンセプトで、場内に入ったところに武部聡志さんらメンバーを船のクルーに見立てたパネルやオブジェを設置したり、会場入りした時点からもう演出が始まっているんです」

 一方で苗場コンサートの名物となっているのがリクエストコーナー。客席から手を挙げ、ユーミンに指名されたお客さんがステージに上り、自分の恋愛体験を語りながら、好きな曲をリクエストするというものである。85年のVol.5から始まったこの試みは現在も続いており、アーティストとお客さんが近くで触れ合える、アットホームな空気もこのコンサートの魅力である。

「苗場のコンサートは夜の9時半 (現在は9時) スタートで、お客さんも泊まりが前提ですし、開放感もあってテンションが高いんです。普通ならあんな公共の場でプライベートな思い出話などしませんが、大半の人が手を挙げて、みんな笑ってその状況を見ている。独特のいい空気感ができ上がっているんです」
 

ユーミンがヒッチハイクで苗場入り!?

 そう語る荒木だが、長年、特殊な場所でイベントを行うことには、いろいろな苦労もあったのではないか。「何度か、二度と起きないでほしい!と思うような事件もありました。91年でしたが、前日から猛吹雪で付近の道路が大渋滞、越後湯沢の駅から苗場まで40分ぐらいのところを8時間近くかかってしまったんです。松任谷 (正隆) さんと由実さんを湯沢まで迎えに来るクルマも来られず、加山キャプテンコーストのクルマを借りて出発したけれど、全く動かない。携帯は普及していない時代で、公衆電話も雪に埋もれて使えない。ホテルに到着する直前でエンストしてしまい、松任谷さんと僕は吹雪の中を2kmぐらい歩いてホテルまで向かいました。由実さんは渋滞の前方にいる旅館のバスにお願いして、乗せてもらったんです」

 なんとユーミンがヒッチハイク! この年は、前年末に発売された『天国のドア』が日本のアルバム史上初の2百万枚を突破した頃である。バスに乗っていた人もさぞ驚いただろう。

 
(次ページへ続く → 日本中がレジャーを共有し始めた時代の名盤)

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