3度目の創刊日 〜大編集後記。

今日の大編集後記は本文最終ページを全文掲載させていただく。先週金曜日の発売日に、東日本大震災の発生から10年を迎えた。風化させぬためにも、そしてこの債務を少しでも軽減しようと共感を得たく、このようなメッセージを掲載した。

 

2011年4月
「あるべき所を間違っている」と思わずカメラマンにつぶやいた。海の近くでは異臭が漂い、あちこちで遺体運搬を目の当たりにした

 

10年の時を経て、なお変わらぬ叫びを今──

 

 『昭和40年男』には3つの創刊日がある。1つ目は2009年10月29日のテスト創刊だ。類似のない狂った雑誌だからビクビクしながら出したのを、今さらながら白状する。月日を経て届いた結果は、ホームランとは言わないまでもそこそこのヒットだった。覚悟を決め、翌年の3月より年に4回の季刊誌が誕生した。2度目の創刊である。1年まわして「これはいけるぞ」と判断した僕は、11年3月11日に今に至る隔月刊誌として本格創刊したのだ。だがその記念すべき日に、日本中が驚きと恐怖、そして悲しみに包まれた。東日本大震災、あの日からちょうど10年の時が過ぎたことになる。言うまでもなくこの号は惨憺たる結果となり、3度目の創刊は極めて苦しい船出となった。

 

 『昭和40年男』はテスト創刊時から、俺たちは社会の中間管理職者なんだ、この国を背負っていくつもりで奮闘しよう、一人ひとりが努力することで必ず社会をよくしていけるはずだ、と訴えた。いい時代の空気をめいっぱい吸い込んだのだから、その分の恩返しを心がけるのはこの世に生を受けた責務なんだとも。当時の社会は、リーマンショック後で下を向いた状態にあったからなおさら奮闘を促す言葉を毎号叫び続けた。さらに加えて、この震災によって増大してしまった日本の債務に俺たちは正面から対峙し、子々孫々の債務をできるだけ軽くすることが責務に上乗せされたとメッセージした。

 

 震災後、彼の地を訪れたのは4月13日だった。タメ年男の医師が、宮城県を拠点にして必死の医療活動をしていると聞きつけその取材に出かけ、さらに惨状を僕なりの視点で読者の皆さんに伝えようとした。僕はその誌面において「完全なる崩壊」と表現した。だがそれでも前を、明日を見る多くの方々にお会いして、その強さに感嘆することの連続だった。と同時に、深い深い悲しみと直面する現場でもあった。生涯にわたって決して癒えない痛みと悲しみというものがあることを、当時45歳だった僕にも十分実感があったから、幾度となく重ねた取材の度に心が強く痛んだ。

 

 55歳になった。もう社会の中間管理職者なんて生易しいことを言ってられる年齢でなく、引っ張っていかなければならない最終章だ。あの日から10年経った現在は、奇しくもまたも債務を増大させている渦中にある。

 

 ここに強く訴えたい。国家が無策だ、行政は不親切だと言ってるヒマがあるなら、汗をかいた方がよっぽどいい。どんなに小さなことでもいいじゃないか、自分ができることを社会に向けてぶつけよう。日々の仕事を昨日よりもいいものにするとか、笑いと愛を心がけたりとかそんな些細なことでも、俺たち世代の大多数がそう思うことができれば社会が明るくならないはずがない。一方で大切なのが、思考停止は絶対にあってはならないということだ。流されることなき意志を一人ひとり練り上げることが極めて重要であることも、強くメッセージさせていただく。

 

 生涯にわたり癒えない悲しみはあっても、笑える瞬間は作れるはずだ。そう想いを掲げ、俺たち世代は最大の奮闘期を迎えたことを皆さんと共有したい。

 

 そして末筆ながら、10年の節目となる今日、被災なさった皆様にお見舞いを申し上げます。

 

 

2011年6月
2回目の取材となった6月には、瓦礫の中で営業を再開する店が散見された。写真は塩害を受けた地ながらもトラクターを動かし始めた農家さんで、笑いながら「なんとかなるさ」を繰り返していた

【クレジット】
撮影: 武田大祐

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