【誕生!昭和40年】携帯発電機・E300

【「昭和40年男」Vol.43(2017年6月号)掲載】

昭和40年に生まれた、いわばタメ年の商品やサービスを我々の思い出と共に紹介する連載記事である。今回は、夏祭りの夜店で、照明の電源としても使われたホンダの携帯発電機『E300』だ。

HONDA SUPERWATT300
ホンダの携帯発電機『E300』は、昭和40年1月に発売され、その後15年間に世界で約50万台が販売される大ヒットになった。夜店の横に置かれた赤いボディを覚えている人も多いだろう。エンジンは強制空冷4サイクルで最大出力1.1㎰/3,600rpm、総排気量は55.4㏄だった

かき氷に綿菓子、射的に金魚すくい…。夏祭りに登場する夜店の前を通ると、どうしてあんなにもワクワクしたのだろう。子供なら出かけると怒られる遅い時間帯でも、その日ばかりは堂々と、しかも特別におこづかいまでもらって友達と駆けつけた。そして、限られた資金をどこで使うかまずは各店を見て回り、ここならおまけしてくれそうだな、なんて思いながら、かき氷を食べ、当たりもしないような豪華な賞品が掲げられたくじ引きに挑戦したりしたものだ。

夜店の白熱灯を煌々と照らした。

そうした夜店の横には、大抵エンジン音を響かせている小さな発電機が置かれ、白熱灯を煌々と照らしていた。この携帯発電機普及の契機となったのが、ホンダ初の市販発電機で赤い本体が印象的な『E300』である。

その開発は1963年頃から始まっていた。ホンダでは屋外レジャーでの使用も想定し、家庭に1台を目指していたという。その背景には、当時、洗濯機や冷蔵庫、テレビといった電化製品が「三種の神器」と呼ばれて普及し始めていたことや、高度成長期を迎えて人々の間に余暇を楽しむ時間が増えたことがあった。これを受け「小さくて軽く、静かで使いやすい」というコンセプトを掲げての開発が始まった。計画当初はより小型のモデルを計画・試作していたようだが、より広い用途を考慮したのか、結果的に出力は300Wを確保しようということになった。

開発初期は、設計から試作に至るまで、設計部門に在籍するたったひとりの若手技術者が担った。ポイントは、エンジンをいかにコンパクトにできるか。悩んでいた開発者に声を掛けたのが、かの本田宗一郎だった。あろうことか、彼は技術者が苦悩しながら描いた図面を引きはがしてくずかごへ捨ててしまう。そして問題点を指摘して去って行ったという。さすがは伝説の人物である。実は、宗一郎自身も『E300』には並々ならぬ期待をかけていたというから、その熱意が表れたのだろう。

また、エンジンの小型化に目処がつき、いよいよ製品が具体化していく段階でのこんな発言も伝えられている。持ち運びを考慮し、外観はトランクをイメージさせるキュービック形状が採用されていたが、これを見て「男女ふたりで持った時、お互いの手が触れ合う程度の持ち手の長さにしたらどうだ」と提案したというのだ。もしかすると宗一郎は、屋外で気軽に電化製品を使えるようになることで、恋人や家族が新たな余暇を楽しめる、そんなライフスタイルを思い描いていたのかもしれない。

こうした思いがあればこそ、僕らは夜店を存分に楽しむことができたというわけだ。現在も、発電機の軽やかなエンジン音を聞くとあの頃を思い出す。一方で、カセットガスを使う『エネポ』が登場するなど、そのバリエーションも広がっている。

HONDA ENEPO
現在、ホンダでは個人ユースを想定した最新モデルとして、家庭用カセットガスボンベを利用する『エネポ』を販売している。ボンベ2本で2時間程度までの連続運転が可能で、東日本大震災後には、需要が一気に高まったという
新分野の商品であったため、どのように良さをアピールするのか、あるいは使い方の提案をするのかなど、試行錯誤を繰り返したという。そのためアイデアを社内からも募集していた(画像はその優秀作の一例)

協力:本田技研工業

【「昭和40年男」Vol.43(2017年6月号)掲載】

文:舘谷 徹/昭和40年7月、埼玉県生まれのライター・脚本家。広報誌やWeb記事、ドラマやアニメの脚本を執筆。プラネタリウムで活動する市民グループにも参加中

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