『月刊オートバイ』になる日。

僕の仕事は多岐にわたるが、なかでもバイク関連の仕事のウエイトはとても高い。ご存知のとおり、バイクは世界に誇る日本のお家芸であり、国内4メーカーはそのまま世界の4メーカーなのだ。昭和40年男にとってはサーフィン、ギター、クルマとともに、バイクも幼少から青年期にかけての関心事4天王だったはず。こういった嗜好品はマスマーティングが通用していたなあ。古き良き時代じゃのう。

僕が住んでいた東京最大のビッグシティ荒川(嘘)は、先輩後輩の規律のしっかりした街ゆえに、バイクへの関心はみな高かった。今となってはカッチョ悪い話だが、中学時代は“族”に入っている先輩の尾ひれをたっぷりまとった武勇伝に目を輝かせて、またビビったものである。そんなガキンチョが、ある日1冊の雑誌と出会った。『月刊オートバイ』だ。『ミュージックライフ』と出会う直前のことで、ここら辺の時系列はハッキリと記憶している。中1の夏に“月刊オートバイ”を初めて買い、その数ヶ月後の冬に『ミュージックライフ』と衝撃の出会いを果たした。そう、僕は今に至る運命の出会いを中1で済ませていたのである。それと同時に、雑誌至上主義人生のスタートも中1だったということだ。

『月刊オートバイ』に繰り広げられる世界は、男の子のハートをわしづかみだった。性能絶対主義の当時、巻頭を飾るのは最高速と0-400mのタイムだった。決めゼリフは「出たーっ」である。至極単純に憧れがあった。同級生と頭をつき合わせて見ながら、近所の誰々がCBに乗っているとか、どいつの兄貴はZだとかという会話を交わした。自転車で15分くらい漕げば上野のバイク街で、放課後に出かけて飾ってあるバイクを写真に収め、教室で自慢し合った。「このマシンさあ、DOHCだからなんだよ」と、よくわかっていないものの、単語を丸呑みにして通ぶったりする男の子だった。

そんなカワイイ中1小僧が、ニューモデルの販売をめぐってメーカーと議論することになるなど夢にも思っていなかった。おお、人生って不思議なものですね(by 小椋圭さん)。そんなある日、元『月刊オートバイ』編集長で、呑み仲間でもあるSさんに電話を入れた。「ちょっとデフォルメするので、ロゴ使わせてくれませんか?」。快諾を得て『季刊オートバイ』として本誌連載をスタートしたのである。持つべきものは呑み仲間だ。前号から『隔月刊オートバイ』に昇格したのを見逃していない読者さんは、『昭和40年男』ジャンキーだろう。そして将来、名実(!?)ともに、『月刊オートバイ』になる日を目指してがんばっているのである。

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