昭和のそば屋が続いてゆく!!

%e9%b3%a5%e5%8d%97%e8%9b%ae名も無き街のそば屋が好きだ。ラーメンなんかもラインナップしちゃってて、灰皿が普通に置いてある(吸わないが)ような昭和な店だ。会社のそばにもそんな僕好みの店があり、ちょくちょく世話になる。奥さんがテキパキと運び、厨房では旦那さんが次々と注文の品を仕上げている。婆ちゃんは洗いものだ。その姿を眺めながらすするそばはうまいうまい。そんな家族総出で毎日を乗り切っている浜松町の名店に最近変化が起きた。婆ちゃんがいない変わりに息子が厨房に加わったのだ。聞くと高校3年生だという。「頼もしいですね」と奥さんに声をかけると「継いでくれるといいんですけど」と照れくさそうに笑った。都会の真ん中でいい話だ。

僕の実家は電器屋を営んでいた。長男だから小さな頃より跡取りと呼ばれ、将来はこの地で親父と同じように毎日テレビを修理しているものと思っていた。が、その未来はまったく違っていた。今どき店でテレビを修理している電器屋があるだろうか。そもそも街の電器屋自体が激減した。そんな将来を親父は読んでくれて、中学2年生のときに電器屋は大型店舗の時代だから継ぐなと言った。その読みも今となっては変化し、ネットでポチっとすると運ばれるようになったのを、親父は空のうえで驚いていることだろう。その実家がてんやわんやに忙しかった昭和50年代は、お袋も僕も弟もよく店を手伝った。お袋の手が回らず昼にはよく出前を取ったものだ。家の並びにあったそば屋を我が家では“ならび”と呼び、親父はよく「今日はならびにしよう」と言っていた。そこはきれいに改装して今も商売を続けている。そば屋ってのはしぶといようだ。

%e3%82%ab%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%82%bb%e3%83%83%e3%83%88浜松町のお気に入りは、変わらない未来であってほしいと願う。この店に通い始めて10年近くになり、隅っこのテーブルで宿題をやっている姿をよく見かけた少年はやがて青年になり、僕の大好きな鳥南蛮やカレーセットを作る日がもうすぐだ。若者風に変えないでくれよ。チャレンジメニューをラインナップしてもいいが、おっさんの舌にも対応してくれなんて願う。あと何年通うかわからんが、ともかくしばらくこことは付き合えることが確定したようだ。ありがたい。

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