49歳だった西郷さんの命日。

写真 1ちょいと暦を前に戻して9月24日は西郷隆盛の命日だった。明治10年の西南戦争で政府軍の銃弾に撃ち抜かれ、盟友の別府晋介に首を刎ねさせた。九州を舞台に、無謀な戦争に踏み切った西郷の心やいかに。西郷の最期を知って勝海舟が見事に表したのが“ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな”と詠んだ歌だ。

西郷を討った政府軍のトップは大久保利通で2人は幼なじみである。その2人が中心となって薩摩藩は明治維新という奇跡を成立させた。そしてその10年後に、国内最後となる内戦を引き起こすことになってしまった。翌年には、大久保は東京赤坂近くの紀尾井坂で暗殺され明治維新の立役者はともに50歳を迎えることなくこの世を去ったのだ。これほど数奇な運命を持つ幼なじみを僕は知らない。

写真 2戦争末期に西郷が立てこもった城山のふもとにある石垣には無数の弾痕が残っていて、政府軍の攻撃の激しさが生々しく残っている。親友の2人の個人的な気持ちを探ればこんな憎しみに満ちたものでないはずなのに、ここまでの攻撃に転じさせてしまった時流が憎く感じてならない。

知れば知るほど尊敬に値する徳の高い2人だ。なのに殺しあうことに至ってしまったのは勝海舟が詠んだまま“子供ら”のせいであり、西郷はこうなることをわかっていたはずなのに担がれた。これも西郷の西郷たるゆえんで悲しい物語である。生家跡を辿るとその悲しさは大きく増してしまうのは、その距離が150メートルしかないことだ。ここで互いに高めあい育った2人の姿をリアルに感じさせられる距離に、訪れる度にいつも、深くため息をつくことになる。

西郷が天に召したのは49歳だった。昭和40年男とタメ年の時にこんな壮絶な戦いを展開したのだ。敬天愛人(天を敬い人を愛する)という言葉を残し、その言葉どおりに生き抜いた。凡人ながら先人の教えを大切にして、彼が生きられなかった年齢まで命を燃やしていくことに感謝したい。大久保が暗殺された47歳はすでに俺たちは超えた。2人のような功績は残せなくとも、美しく生きることは努力次第と信じて人生を歩んでいきたい。

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