大編集後記その拾壱。さようなら、そしてありがとう川俣兄貴。

今日の『大編集後記』は悲しい話をさせていただく。最新号の編集後記でも書かせていただいたことで恐縮だが、この夏、大切な人を失ってしまった。仕事のパートナーであり、よき指導者であり、音楽仲間、呑み仲間、そして大切な兄貴分だった川俣 隆さんが逝ってしまったのだ。『昭和40年男』のライティングで大活躍していただいた方で、読者の皆さんともつながっていた存在だ。

出会いは2006年、夏の暑い日だった。当時僕は、音楽雑誌の創刊に向けてバタバタの日々を送っていた。コネもノウハウもまったくない世界への進出に、毎日のように新しい出会いを重ねていた頃だ。本誌では『俺たちのアイドル』でおなじみ、今や売れっ子脚本家の葉月さんを編集部員が見つけてスタッフに加わってもらったことが、川俣さんとの出会いへと繋がった。音楽業界で多くの仕事をこなしていた彼女だから、知り合いの方がいたら紹介してくれと頼んだ。すると早速紹介してくれたのが川俣さんだったのだ。来社いただいたのは夕方だったが、その前の打ち合わせが伸びてしまい赤坂見附駅から走って帰社して汗だくで向かい合ったのが最初である。まず数分遅れてしまったことを詫びて対話が始まった。温厚そうな彼は、A4のペラ1枚に書かれたプロフィールを僕に差し出し、僕はそのなかの数々の経歴の中に、驚愕の一文を見つけた。

ギターマガジン編集長。

これが3年間に渡って頑張った音楽専門誌の『音に生きる』だ。川俣さん抜きでは作れなかったこの特集で挑んだ号が、この雑誌にとって最高売り上げを記録したのだった
3年間に渡って奮闘した音楽専門誌の『音に生きる』だ。川俣さん抜きでは作れなかったこの特集で挑んだ号が、この雑誌にとっての最高売り上げを記録した

「ウギャー、うそだろう」と心が叫んだ。僕が中3からしばらくの間愛読していた雑誌で、彼の作った世界に成長させてもらったといっても過言ではない。当時に戻ったかのごとく少年の口調になり「大好きな雑誌でした」と告白すると「そうですか」とやさしい笑顔を浮かべた。あれから8年も経つというのに、この日のシーンがはっきりと思い出される。僕を雑誌好きにさせた張本人の1人であり、僕に強い影響を残した人物だ。一通りの打ち合わせを済ませて僕はチョッピリドキドキしながら「もしよろしかったら一杯つき合っていただけませんか」と、いじらしいほどの誘い方で繰り出すことに成功した。初対面の日に2軒ハシゴするバカ騒ぎになり、すっかり意気投合して、この秋に創刊した音楽雑誌『音に生きる』に大きく貢献していただいたのだった。この雑誌は残念ながら休刊となってしまったが、移行するように始まった『昭和40年男』にも創刊から入ってもらった。音楽のページはもちろん、その人柄からインタビュー記事を数多く担当していただいたが、その現場での想い出も僕の心の中に膨大にストックされている。

川俣さんは当然ギタリストでもあり、1度だけライブをご一緒している。その日の僕のバンドは、ピアノとパーカッションとトリオの編成からスタートさせて、徐々にゲストミュージシャンを加えていく演出で、後半の大物的な存在で川俣さんに加わってもらった。
「僕らが世話になった雑誌の編集長だった人で、この人のおかげでいろんなものを買わされました」と彼を紹介した。実際、『ギターマガジン』によってさまざまなモノに投資させられたのだ。
「どうも、川俣です。こう見えてアラ還です」と、ぶら下げたゴールドトップのレスポールとはちょっと似合わない、うわずったような声で自己紹介した。そして買わされたとの紹介をかわすように、ロックの罪を語った。ロックに人生を操られたバカモノたちがこのステージにいる。すべてはロックが悪いのだと。兄貴らしいすばらしい言葉だった。そして「ロックをガツンと演りますが、いいですか?」とお客さんをあおった。おそらく会場にいた最年長の言葉に皆が引き込まれ、次の瞬間ローリング・ストーンズの『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』のリフがゴールドトップレスポールからはじき出された。同じステージにいながら、そのカッコよさに感激したものだ。そしてこんなアラ還を目指すぞと思いながら、僕もガツンと叩き付けるようにロックを歌ったのだった。

ちょくちょく呑んでは「北村さんと呑むとつぶされる」と言いながら、いつもつぶれた。「早く退院して呑みに行きましょうよ」と約束したのに嘘つきだった。逝く前のある日には、朦朧とする意識の中で編集部に電話をかけてきてくれ『昭和40年男』のことを心配していた。

通夜に行って手を合わせてもちゃんと飲み込むことができず、しばらく消化不良のままだった。だが読者の皆さんに報告する義務があると思い、最新号で編集後記のスペースを使った。この原稿を書きながら少しずつの現実を受け止め、書き上げた時にやっとさようならを言えた気がした。『ギターマガジン』を通じてそのスピリットと出会ったのが中3の冬。30年以上の時が流れてこうして悲しい別れを迎えてしまったが、川俣さんから教わったことを大切にして、僕は本作りを続けていく。彼の得意とした音楽雑誌に、再トライしたい気持ちも芽生えている今日だ。

ありがとう、兄貴。やさしい笑顔を心の中に、ずっといつまでもしまっておきます。

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2件のコメント

  1. いい星の下に生まれたんだね。
    親父含め先輩方から受け取ったバトン、しっかり磨いて渡せるようにお互い頑張りましょう。

    • ありがとうございます。
      そうですね、大切にバトンを握りしめて走ります。

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