出版社として歩んだ10年。~誕生!! タンデムスタイル~

2010 年 8 月 24 日 編集長 コメント募集中


うちの社が出版事業に手を出して10周年を迎えたので、
間にいろいろはさみつつ、これまでのことを振り返りながらつづっている。


プロジェクトチームが結成され、企画会議が繰り返された。
これまでの2冊とは違い、俺だけの感に頼ることなくみんなで意見や企画を持ち寄った。
そのころのバイクシーンは、表参道あたりのオシャレな男の子たちがオピニオンリーダーとなり、
そろそろフォロワーの時代が来るという局面を迎えていた。
バイクはファッションのツールというトレンドがあったのだ。
プロジェクトチームは、この層は間違いなくやがてほとんどが降りてしまうだろうと予想した。
だったらその層にバイクの楽しみを提供して降りないようにするという、
これまでにまったくないテーマを設定したのだった。


テーマが決まり雑誌名は“1人で風になる”というお決まりのバイクの世界でなく、
もう少しライトな感覚で楽しんでもらおうという意味から、
2人乗りを意味する“タンデム”を用い、その世界観を感じてもらおうと『タンデムスタイル』と命名した。
よっしゃー、これでいこう。
会社を売ってくれた社長と問屋(取次)担当に、早速交渉にいくように命じたのだが…。
「ダメです。無理です」と、連絡が入った。
うちが買った会社の持っているコードは、
あくまで『レディスバイク』でその復活でなければダメだと言うのだ。
 「おいおい、せっかくの高い買い物をどうしてくれるんでい。
 冗談じゃねーや、会社が版元になってやっと1発目の出版物だってのに」
確かに買った会社が持っていたコードのブランド名はそうだが、
「えーっ、そういうことなの?」という素人丸出しの俺だった。


一瞬考えてみたが、バイクというカテゴリーとはいえ
女性誌を作る自信はまったくなかった。
それに、記念すべき当社初の出版事業なのだ。
バイクという縛りはあるものの、誰もが楽しめる広い読者にぶつけたいじゃないか。
雑誌名変更でなんとかならないかと再度掛け合い、渋々だがなんとかOKとなった。
やったーと創刊号の制作に入ったが、これが至難を極めたのだ。


これまでの2冊には確固たるテーマがあり、そこを好みそうなターゲットを抽出して作ればいい。
『タンデムスタイル』は先に述べたとおり、もともと走りや遠出など興味がなく
ファッション感覚で乗っているライダーを別の次元へと誘うのだ。
そうしたライダーが興味を持つだろうというテイストページと
コンセプトであるバイクの良さを伝えるまじめなページをちりばめてバランスを取らなければならず
考えれば考えるほど難しい。
それでも少しずつまとめ上げ、創刊号のリリースとなったのだ。


反省点は多々あるものの、まったく新しい世界観はつくれたという満足感があった。
ただし、大きな痛みをともなった出発になってしまったのだ。


続く

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昭和40年男の妻たち。

2010 年 8 月 23 日 編集長 コメント募集中


先週末、浜松町のオフィスに昭和40年男の“妻”4人に集結願った。
次号の特集である『力』の中で、家族力のセクションでの座談会取材である。
この企画大成功だったな、昭和40年男にとってはきっと参考になると思うよ。


女性が話しやすいようにと、女性ライターの葉月さんに司会進行をお願いした。
俺はちょっと引いた場所に陣取り、取材の流れを追っていた。
初対面とは思えない盛り上がりを見せ、本音トークがどんどん出てくる。
やがて居ても立ってもいられなくなり、席を立った俺だったのだ。
なんかさ、自分が言われているみたいな気分になるんですよ。
 「褒めてあげないとすねる」
とか
 「ずーっと小学3年生」
とかさ。ふん。
もっともそれだけではなく、女性だけにまかせたほうが
もっともっと本音が出るだろうという考えもあったのだ。
すごくいい雰囲気で盛り上がっていたよ。
途中からは離脱して議論を聞いていないから楽しみなんですよ、原稿があがってくるのが。


無事取材は終了し、ご協力いただいたお礼に
食事に行きましょうと言うと4名のうち3名が参加してくれた。
1人は残念ながら急遽仕事が入ってしまったとのことで、
代わりに旦那さんと娘さんが参加してくれた。
『昭和40年男』はこうしたコミュニケーションを大切にしている。
取材の上での出会いを、そのまま終わらせることなくふくらませていくのだ。
そうしてつくりあげた仲間がまた仲間を呼んでいき、取材協力者の輪が広がり、
提唱しているみんなでつくっていく世界観につながっていく。
それともっと基本的なことで、俺のかたよった視点を是正していきたいから。
1人出会えば、そこには必ず俺と違った人生があるわけだからね。


そんなこんなで芝大門が誇る老舗そば屋である『更科』へと出かけた。
いやあ、皆さんよく呑むこと。
楽しい会話であっという間に時間は過ぎていき、カラオケにまでくり出すことになった。
懐かしの歌が次々飛び出す。
入店前に「2時間だけの延長無し」とのルールを決めていなかったら、
朝までいったかも知れない元気な3人の妻たちでした。
期待の持てる4ページですぞ。


追伸
締め切り直前にもかかわらず、本日も浅草秘密基地は元気に開催します。
そろそろ夏休みボケも解消されたんじゃないの?
待ってますよ。

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出版社として歩んだ10年。~買収成立じゃ~

2010 年 8 月 22 日 編集長 コメント 2 件

うちの社が出版事業に手を出して10周年を迎えたので、
間にいろいろはさみつつ、これまでのことを振り返りながらつづっている。


さて、版元になるための方法であるが、
手がまったくないわけではないことは以前から知っていた。
コードを買うのである。
これは問屋もすんなりと認める。
たとえば『ジパングツーリング』を買って、そのままうちが出版社になるというのはスムースなカタチだが、
成功している雑誌をみすみす手放すお人好しな版元など、当たり前だがいない。
版元もリスクを負って創刊にこぎつけているのである。
創刊誌がそのまま成功する確率は非常に低い。
莫大な広告をうち、鳴り物入りで創刊された雑誌が、
次から次へと消えていくのを皆さんも見ているでしょう。
そんな中、儲かるシステムが完全に構築された外注丸投げ雑誌は、
版元にとっては非情においしいものであり、それを手放す経営者が存在するはずがない。
資金繰りが苦しくなっている版元から、ゴミみたいに弱まったタイトルを
高値で買うというのがやっとこさ可能性がある程度のことだ。


もうひとつの手は、休刊中の雑誌を買い取るという手段がある。
いったん発行を休止したとしてもコードは残るのである。
だから多くの雑誌は休刊であって廃刊でないのだ。
取得するのに大変な苦労をするものであるが、一度得た権利には意外と寛容だといえる。
だがこのパターンでコードを取得したとすると、大きな苦労を要するのは当然のことだ。
なんてったって事実上廃刊している雑誌のタイトルを買い、
復活させて成功へと導かなければならないということなのだから。


この当時、知り合いの経営するエルビーマガジン社というところが
月刊の雑誌コードで『レディスバイク(Ladys Bikeこれを略してエルビーだから社名がこうなっている)』を持ち、
休刊中という状態が続いていた。
広告部としてしばらく手伝っていた雑誌であり、社長ともすこぶる仲がよかった。
俺が版元への一歩を進めるには、このコードを利用するのがもっとも近道であり、
前述の通りのいばらの道でもあった。
「ねえ、会社ごと売ってくださいよ、安く」
何度も交渉を続けたのだった。
彼も苦労して取得したコードであり、長年の愛着もあったためなかなか踏ん切りが付かなかったようで、
99年春から交渉を続けOKとなったのは秋を迎える頃だった。
周囲からは無謀だとか、その値付けは高すぎるといった声も上がったが、とにかく俺は版元になりたかったのだ。
決定した価格を20回の分割払いにしてもらってなんとか成立したのだった。
広告から始まり、企画、編集へと切り込んでいき、とうとう出版までたどり着いたのだ。
翌年、つまり2000年の春をターゲットに企画会議が始まった。


続くよーん

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  1. 2010 年 8 月 23 日 14:04

    こんにちは。
    以前一度資料を送ったものです。
    まだまだ、1965年はがんばっていますよーーーがんばってください。

    私は、今、自分の愛車をハリウッド映画に出演させたくて、色々と動いています。

    近日中には、アメリカの有名な車雑誌にも載るのですが、応援してください。

    ブログ、見てください。

    http://bolgs.yahoo.co.jp/ichiraku911

  2. 編集部員
    編集長

    以前メッセージいただいたときもそうですが、応援ありがとうございます。ハリウッド映画をぜひ実現させてください。タメ年同士、応援してます。

出版社として歩んだ10年。~版元になりたい~

2010 年 8 月 21 日 編集長 コメント募集中

うちの社が出版事業に手を出して10周年を迎えたので、
間にいろいろはさみつつ、振り返りながらつづっている。


さて1年間編集長として踏ん張った『カワサキバイクマガジン』は快進撃を続けることができ、
『ジパングツーリング』とともにバイク雑誌に新しい風を吹き込んだ(またぁ、大げさな)。
ちょっと整理すると、96年に初の企画立案誌である『カワサキバイクマガジン』創刊、
97年に企画立案に加え、編集部を社内に構えると同時に、
エディトリアルデザイン&DTP部門を創設、
98年には『カワサキバイクマガジン』編集長に就任と、ドタバタな日々が続いていった。
毎春ごとに大事に立ち向かい、なんとかしがみついてきた。
そうしていく日々が充実すればするほど、
うまく行けば行くほど版元になりたいという気持ちが強くなっていく。


ところが、版元という江戸時代から残る言葉がそのまままかり通っているから、というわけでもないが
出版業界には旧態依然とした古い体質が多く残っている。
その際たるものが、雑誌出版への進出が非常に困難ということである。
通称“コード”とか“出版コード”とかいわれる番号登録を取得しなければ、
全国の書店を流通させることはできないのだ。
問屋が作る協会が認可したものだけがコードを取得でき、
同時に問屋が扱ってくれるから全国誌として君臨できるのである。
つまり、出版業界は問屋が非情に強い力を持った業界だということ。
もちろんすべてがネガティブなわけではない。
全国書店への流通網を整備し、1冊にいたるまで販売管理をしてくれる優秀な業者であるし、
また出版コードを乱発しないおかげで、全国誌を出せるということ自体にステータスが生じる、
といった具合に、メリットや恩恵を受ける部分もある。
それが年々崩れてきているのも、出版界におけるさまざまな変革期を迎えている要因の一つなのだが、
そのことについては後日、詳しく書き綴っていこうと思う。


そういうわけで、当時2冊のバイク雑誌を成功させたとはいえ、
「新しい企画にコードをください」というのは、99.9%不可能な話であった。
湯水のように予算があり、社会的にステータスのある会社だったら手はあったかもしれないが、
我々にはその道は完全に閉ざされていたのだ。
支持してもらえる雑誌は作れても、出版社にはなれない。
諦めたくはなかったが、道はなかなか開けなかった。


だが、99年、我々にチャンスがめぐってきた。


続くよーん

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鈍行列車の旅。~最終日~

2010 年 8 月 20 日 編集長 コメント募集中

いやあ、前日の雷はホントにすごかったよ。あれほどクッキリハッキリとした光のスジを、
何十本も見続けたのは生まれて初めてだよ。カメラマンの武田は雨男だからな、仕方ないか。


それでは旅の最終日(昨日)の報告といきましょう。
3日間でもっともゆっくりの始発列車で、6時30分のスタートとなった。
チケットをなくしたので、泣く泣く自腹での購入だ。
川内(せんだい)まで、途中下車なしで向かい、乗り換えた列車が今回の一番のお気に入りになった。
2両編成の生活ラインであるが、オレンジ鉄道と名乗っているのがなんだか笑える。
のんびり行くまさにローカル線で、景色がすばらしい。
もしも金曜日に予定を入れていなかったら、この線だけに1日かけて取材したことだろう。


さらに乗り継いで鹿児島中央駅で武田と別れた。
ここからが最終アクセスとなるので、レンタカーで先回りしながら狙うという作戦に出たのだ。
最後は指宿枕崎線という、やはり2両編成の列車である。
これ、足回りがそうとうヤレていて、これまででもっとも大きな揺れとのつき合いになった。
さらに最後のシーンを盛り上げようと、たくさんつぶやくために
携帯への打ち込みを続けていたため、すっかり酔ってしまったよ。


一度の途中下車を挟み、まずは最南端の駅である西大山に到着した。
はじっこってロマンがあるなあ。
前回のチャリ企画もなぜ宗谷岬かって、最北端だからだもの。
この2号で北と南を制したことになるのだ。
(最近鉄道が走り始めた沖縄を除く。それ以前までは日本最南端だった)
45年生きてきての快挙に興奮を抑えられない俺だった。


そして14時36分、とうとうこの旅の最終地点に到着した。
ゴールがあるということが、感動へと誘ってくれるものなのだなと
あらためて気付かされたのだった。
ツイッターでつぶやき続けた3日間の旅だったが、
最後の最後にゴールを「柏崎」と書いてしまい、バカバカぶりを露呈してしまったよ。
ここでは駆け足で紹介してきたけれど、
次号では6ページを使ってたっぷりとお届けする予定なんで、乞うご期待。


撮影・武田大祐



★おまけ★
昨日と一昨日にひねり出した歌の一部です。
 一. 最終日 わくわく気分に さびしさが 混じる旅人 熊本の朝
 一. チケットが 門司のどこかで 一人きり さびしいことよ 主との距離
 一. さまざまな 日本の表情 この胸に 刻み込めたは 鈍行がゆえ

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鈍行列車の旅。~2日目~

2010 年 8 月 19 日 編集長 コメント募集中

旅先からブログアップ!(撮影・武田大祐)



鈍行の旅企画、2日目の朝だよーん(昨日ね)。
5時にホテルを出て、岡山駅へと向かい5時18分に旅がスタートした。


1時間ほどして気が付いた、昨日に比べると格段に電車の進行が悪いというのか遅い。
停車駅が多く、しかもチョクチョクと速い電車に抜かれるものだから、待ち時間も多いのだ。
そこでひらめいた天才編集長の俺だ。
カメラマンの武田に「別行動を取ろう」と提案した。
速い電車を利用すればカンタンに先回りできる。
なんてったってこっちは遅いのだから。
こんなこともあろうかと俺もカメラは持ってきているから、車窓は押さえられる。
ひたすら時刻表を覗き込む武田は「やってみましょう」と、広島で機材を持って降りていった。
いやー事件は…、じゃない取材は現場で起こっているんだねえ。


こうなると今回の企画テーマである、一人旅を感じることができる。
よーし、集中しちゃうよーと、車窓を眺めながら1人で鈍行旅する(昨日も極力離れて座った)心をたずねる。
うん、いいね、いいねを繰り返しながら、顔がにやついてくるのだ。


老紳士と出会った。
「こちらの方ですか?」
「はい」
顔って人を現すよね。「はい」と返事してもらえることが瞬間的に予想済みだもの。
「いつか鈍行でのんびり東京まで旅がしたいものです、逝く前にね」
「なにを寂しいことおっしゃるんですか。おいくつですか?」
「91です」
どっ、ヒャー!!!!!!!!
俺のこれまでの人生×2+1だよと、わけのわからん計算をして驚愕したのだった。
「それでは気をつけて、よい旅を」
「おとうさんもお元気で、いつか東京に来てください」
たった一駅区間分のコミュニケーションだが大きな大きな財産になった。


そんなこんなで旅は続いていく。
いったん離れた武田と新山口駅で合流して、互いの健闘を称え合った。
やがて本州から九州へと入り、どんどん進んでいく。
明日の旅程を考えたうえで、熊本を最終ポイントに決めた。
昨日裏切られた2つの城へのリベンジをかねてだ。
熊本城で写真を撮る。
負けが続きひびっている俺は、携帯で検索してみるほどのチキンぶりだよ。
うん、たぶん工事はしていないぞと、やっと会える城へと思いをはせたのだった。


と・こ・ろ・が。
雲行きがあやしくなってくるじゃないの。
そして偶然というにはあまりにもジャストミートなタイミングなのだが、
熊本駅で降り城へと向かおうとした瞬間、大粒の雨が降り始めた。
三度叫ぶ、おーまいがっ!
だが2人はゆく、雷の音が響き渡り尋常でない雨が叩き付ける街をゆく。
こんなに見事なまでの線を描く大量の雷を見たのは人生で初めての経験。
神はここまで城を遠ざけるのか?
負けない、負けないぞ。
俺たちはやっとのことで城とのカット撮影に成功した。
んなこたあ、なんでもないことなのは100も承知だが、もう一度言いたい。
俺たちは城との撮影に成功したのだー。
びしょぬれだけどね。


楽しみにしていてね、次号の写真を。

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鈍行列車の旅。~初日編~

2010 年 8 月 18 日 編集長 コメント 6 件

連続で綴っている想い出話を中断して
ちょうど今、取材をしている企画『鈍行列車の旅』の裏側をお届けしたい。


「前回のチャリンコ企画が評判いいですよ」
怪しく忍び寄る副編小笠原だ。
「やっぱりああいう等身大のトライはいいですね」
返事はあえてしなかった。
また乗るのはいやだからね。
あの旅は本当に辛かったが、誌面としては変化が付いたなという編集長の俺がいる。
「次、なんかやんないんすかー?」
前回俺のチャリ旅につき合ってくれたカメラマン武田も言う。
小笠原とまったく同ベクトルだ。
「鈍行列車で最南端とかはどうですか? 駅弁食いまくりながらとか」


というわけで、鈍行列車でいく最南端&終着駅の旅があっさりと決まったのだ。
目指すのは九州は鹿児島枕崎で、最南端は途中の駅になる。
前回のチャリンコ企画と比べてしまうと、チャレンジ感は薄い。
むしろ贅沢な旅企画と行っていいかもしれない。
なんて話を出発前日の浅草秘密基地の会場であるフィガロのマスターに言ったら
「うわーっ、それきついなあ」って言ってもらえて、ちょっと喜んでいたりする変な俺だ。


かくして浅草秘密基地の翌日、つまり昨日の朝4時に
芝大門のオフィスをおなじみ武田と出発した。
始まりは品川からの始発電車で、4時35分発の熱海行きだ。
まだ眠ったまんまの街を滑り出して行く始発電車が気持ちいい。
毎度のごとくバタバタながら自分にとって初めての電車旅企画が始まったのだ。
今回はツイッターでつぶやきまくれという命題もある。
しかも人生初の五七五調でという。
つたない詩ですが、笑ってやってください。


旅の始まりこそ空いていたが、東海道線はずいぶんと混んでいた。
とてもじゃないが駅弁を買っても広げられないような状況もあったくらいだ。
ひたすら移動して大垣駅で途中下車して、ならばいいカットを撮ろうと大垣城へと向かった。
が、おーまいがっ!
工事中じゃねーか。
ものすごく気温が高い中を汗びっしょりになっていったのに。


気を取り直して旅を続け、順調に進んでいった。
よしっ、姫路で途中下車してさっきのリベンジだと勇んでいったのは、
白鷺城と呼ばれるほど美しい姫路城へと向かった。
ふん、大垣城なんざ目じゃないぜとばかりふんふん向かったものの、再び、おーまいがっ!
なんとここも工事中であった。
足場が組まれネットが張られた白鷺城と、巨大クレーン2台がおりなす風景の美しいこと…
って、んなわけねーじゃん。
またも汗にまみれた2人はおおいに落ち込むことになったのである。
と、そんな中で撮った武田の会心(?1)のショットに乞うご期待ですヨーン。


旅の1日目は18時39分に岡山着で終了した。
約15時間の電車旅は、前回のチャリのような過酷なものをにはならないが、
また違った味わいのあるページを目指していくぞ。
2日目は九州熊本を目指して行くぜ!!


★おまけ★
昨日ひねり出した詩の一部です。難しいっす。

朝は皆 職場目指して まっしぐら 静岡駅が 人を飲み込む
山々に 囲まれ走る 山陽線 光は淡く ゆらりゆらゆら

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  1. kura
    kura
    2010 年 8 月 18 日 18:54

    お~各停で枕崎ですか♪
    自分もそれはチャレンジした事が無いですねぇ~。
    この旅もお尻が痛くなるとは思いますが頑張って下さい♪
    雑誌を楽しみにしていますm(__)m

  2. 編集部員
    編集長

    それがねえ、お尻は痛くないんですよ。いいページになるように頑張ります。

  3. BLACK BROS
    BLACK BROS
    2010 年 8 月 19 日 08:00

    Welcome to 九州!

  4. 編集部員
    編集長

    九州はいいところですね。ただいま鹿児島から最終アクセス中です。

  5. たっぱ
    たっぱ
    2010 年 8 月 19 日 12:11

    なんと、今度は最南端?

    北海道は寒さとの闘いだったけど、今度は暑さとの闘いでしょうか・・・

    熱中症にはくれぐれも気をつけて。

    いい旅、いい取材ができますように・・・

  6. 編集部員
    編集長

    応援ありがとうございました。かなり返事が遅れましたが、無事にたどり着きましたよ。
    先日は『宴』に参加してくれてありがとうございました。ぜひ感想なども聞かせてくださいね。

出版社として歩んだ10年。~池中玄太を超えた~

2010 年 8 月 17 日 編集長 コメント募集中

なんと、偶然にも次号で特集する1972年を特集しているではないか…

 



昨日は夏休み明けのお疲れのところ、浅草秘密基地に多数(!?)ご来場いただきありがとうございました。
本日より鈍行列車の旅を開始したので、Twitterにてチョクチョクつぶやいてまいります。
さて、うちの社が出版事業に手を出して10周年を迎えたので、振り返りながらつづっている。


『カワサキバイクマガジン』の11号から、今に続く編集長人生がスタートした。
もうとにかく張り切って取り組んだ処女作である。
すべての見直しから始めた。
それまで横組みだった本文を縦組みに変えた。
すると当然ながら開きの方向が変わるのは、国語と算数の教科書を思い出してもらえばご理解いただけるだろう。
ロゴマークも変えて、それまでの連載企画も落とすものは落とし、すべてを一新してのぞんだのだった。


やっとこさでき上がり、98年4月1日に書店の棚にデビューした。
『ジパングツーリング』と同様に自分の本だと堂々といえるだけの作業をこなし、
編集としてたずさわり文章もたくさん書いた。
いろんなことに挑戦してのデビューとなったのだ。
やり残したところも多々あったが、当時の自分の実力が出た作品となり、
売れ行き結果を待つ日々が長く感じられた。
このデビュー作は忘れもしない75.9%という、高い実売率をマークした。
それまで60%以下でウロウロとしながら、少しずつ発行部数を減らされていただけに、
これは純粋に力が結果として出たことになる。
出版社もビックリの結果で、大変おいしい酒をおごってくれた。
その後も快進撃を続け、手前味噌であるが前編集部時代の約3倍の部数にまで延ばした。


だが困ったことに、ものすごく太ってしまった。
夜中に食う。
たぶんストレスとかもあると思うがたくさん食う。
ラーメンをすすって牛丼大盛りとか毎日平気でやっていたのだ。
しかも1日4食生活となり、15kgの脂肪を半年でため込んだ。
人生で初めて、池中玄太を越えた瞬間だった。


続くよーん

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靖国神社参拝。

2010 年 8 月 16 日 編集長 コメント 2 件









昨日の終戦記念日は、例年どおり靖国神社に行って手を合わせてきた。
昼前に着いたため、24回を数える戦没者追悼中央国民集会にも参加でき、
正午にはそこに居合わせた何千人の方々と一緒に黙祷を捧げることができた。
続けて武道館で天皇陛下がおっしゃっている言葉がそのまま流される。
集会からの声明が出され、管首相への抗議声明も出された。


俺は本誌やこのブログで、政治や戦争についての自身の考えを声高に述べていく気はない。
ただし、事実を伝えるという行為についてはキチンと取り組んでいきたいとも思っている。
リアルな声や現象を伝えることで、みなさんとともに考えを練り上げたい。
取材や調査を重ねていくなかで、いつかできるだけ早い段階でコミットができる人間にはなりたいと思うが、
現段階では実力不足というのが悲しいかな本音でもある。
だから8月15日はここにいたい。
ここで吸う空気がもっともいい勉強であり取材であると思うからだ。
今年もたくさんの老若男女の顔を眺めながら、自分の考えを一歩熟成できたと思う。


ここに来ている人すべてが右的思想なのか?
算数的に分けたら中央より右側と分類できるのかもしれないが、
そろそろそんな所から脱却していきたいと思う。
昭和40年男は、そうした流れを作っていく中心世代として、明日を築いていくべきだとも思っている。
そもそも、俺たちの義務教育では戦争について教えてもらえなかった人がほとんどじゃないか?
歴史教科書の後半は、時間切れのごとく割愛されるという経験を思い出すでしょう。
当時は「なんだ、教科書ってすべて習わなくてもいいんだ」と、なんの疑問も感じなかったが、
やがて事実を知ることになったのはずいぶんと大人になってからである。
当時は教育の現場でそんなことが起こっていたわけだ。


今回は閣僚全員が参拝自粛という愚行が起こってしまった。
祖先が神霊となり守ってくれるという精神は、日本人が守ってきたものであるはずだ。
だから我々は祖先を敬い、大切にしてきた。
日本を背負っている人間たちが全員行かないということで
今回の政権はその精神を全否定したことになってしまったともとれる。
だが、伝統に培われ連綿と守り通してきたものをカンタンに棄ててしまうような国と
まともに対峙する外国があるはずがないじゃないか。
ますます付け入る隙を与えたことになり、
アジアの国々やロシアはわがまま言っちゃうレベルを3段階ほど一気にあげ、
欧米諸国はまともにつき合う国じゃないと外交真剣レベルを2段階ほど下げたことだろう。
なにがなんでも管さんが終戦記念日に行くべきだとまで思わないが、
そこにはバランスってものがあるじゃないですか。
むしろ「俺はやめておくけど、○○さんと□□さんは行ってきてくれ」くらいのしたたかさがないと、
ホントに中国にいいようにされてしまうよ(すでに大変なことになっているが)。


と、腹を立てながらも、靖国神社の基本的な考えである
「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の心霊」
に対して、心を込めて感謝の気持ちで手を合わせることは実に清々しく、
また周囲のみなさんも同じ想いだということも気持ちがよい。
日本人について深く考え、取材を積み重ねた1日であった。

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  1. kterry
    kterry
    2010 年 8 月 25 日 12:55

    参拝お疲れさまでした。どこかでお会いしていたかも知れませんね。私の小学校1年生の時の担任は旧日本陸軍の軍曹でした。しかし組合教師が跋扈していた中学では今思えば酷く偏った社会教育を受けました。日の丸、君が代、愛国心、靖国参拝などに肯定的な私は当時から「右翼」と呼ばれていましたが、もしそれを右翼と呼ぶならそれで上等だと思います。我々年代はどのような教育を受け、思春期にどのような文化や風俗にふれ、それらの影響はどんなものなのか,一度キチンと検証したいですね。

  2. 編集部員
    編集長

    お疲れさまでした。うれしいなあ、貴重なメッセージありがとうございます。
    あの日は暑かったですよねえ。私は中央集会の後に、40分ほど並んで手を合わせることができました。
    いつかご一緒できたらおもしろいですね。昭和40年男同士で、教育経験を語り合うというのもやってみたいです。

出版社として歩んだ10年。~北村編集長誕生~

2010 年 8 月 15 日 編集長 コメント募集中


出版事業に手を出して10周年を迎えたので
当時を振り返りながらこれまでのあゆみを綴っている。


96年、97年と自分の企画で世に本を送り込んだ。
98年に入ったある日、出版社から呼び出しがあった。
「あの編集部はダメだ。売れる本はつくれないよ」と社長が言う。
『カワサキバイクマガジン』の編集を任せていたプロダクションに力がないとのことだった。
1年目は季刊で4冊出し、2年目は隔月になって10号目の制作にかかっている頃の話だ。
「うちの会社で編集作業をやろうと思っているのだが」との社長の言葉を制し、
「ちょっと待ってください。うちにやらせてもらえませんか」と投げかけた。
『ジパングツーリング』編集部にやらせようと思ったのだ。
両誌とも隔月だから工夫すれば回せるはずで、月刊ペースになればスケールメリットが出て
結果的には編集コストを下げられると瞬間的に思ったのだ。
そしてなにより、自分の意志を本に吹き込めることになるのが大きい。
社長は納得してくれ、早速調整すると言い残して版元を出た。


社に戻り『ジパングツーリング』編集長に話してみた。
検討を重ねて数日後に一度は快諾してくれたのだが、問題が起こった。
これまでやってきた編集プロダクションに仕事を出してくれと頼んだことに対し、
彼はそれでは自分の本にならないからと首を縦には振ってくれなかったのだ。
平行線のまま彼から「北村さんがやったらいいじゃないですか」と、一言投げられたのだった。
「いやあ、俺、編集経験そのものがないし」
「十分に経験してますよ。北村さんならやれると思うな」と言われた豚さんは一瞬にして木に登り
「よーし、いっちょやったるかと」決意を固めたのだった。


報告に行った版元社長もそれはおもしろいと快諾してくれ、
ここに編集実務経験のない編集長が誕生したのだった。
いやあ、人生ってなにが起こるかわからんねえ。


続くよーん。

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