第2号の制作現場での出来事や想いなんぞを綴っている。
今回は第1特集である“タメ年たちのリアル”に掲載した
立川談慶さん(P38~41)の記事について、第4回目。
舞台で落語の魅力を知った俺たちは、
いざ、インタビュー取材に臨むこととなった。
談慶さんは、2月3日の節分の日に、
これまたおもしろい現場を指定してきた。
慶応の落研が代々世話になっているという、
東京の田町駅のそばにあるペナントという喫茶店だった。
この古き良き時代を感じさせる店は、
聞いてみたら店自体がタメ年の昭和40年開店だそうだ。
長渕剛さんが来店したせいか、
BGMがすべて長渕さんというのが気にならない方は
ぜひ行ってみてください。
この店で2時間近いインタビューとなった。
苦労の人である。
でもその苦労が実ったところが今回のインタビューの肝だ。
遠回りをしたが、その遠回りそのものが実力になっている。
9年以上も前座で過ごした不器用な男が、
今やっと花開こうとしているようにも思えた。
努力を惜しまなければ必ずやいい方向へと行くことを、
身をもって示してきた人生だ。
副編の小笠原もずいぶん力を入れて書いていたし、
俺も的確なアドバイスはできたと思う。
38ページからの4ページをあらためてご覧ください。
第2号の制作現場での出来事や想いなんぞを綴っている。
第1特集である“タメ年たちのリアル”に掲載した
立川談慶さん(P38~41)の記事について、第三回目。
初めて談慶さんを舞台で見たオレ。
言葉にパワーが乗っかって、圧を感じる。
自分の視界にいるのは談慶さんひとりなのだが、
視界の反対側にスクリーンが広がっていて噺の世界が見えているような、
なんとも不思議で初めての感覚だった。
スゲーおもしろいよ。
しかもたったひとりで何百もの客を引き込んでいく。
凝った音響も照明もないから、どんなライブよりもスタッフは少ないだろう。
そう考えると、ひとりあたり感動量(感動した観客数÷表現側の人数)が
異常に高い世界だなと、
わけのわからん尺度で感激したのだった。
この数日後、サントリーホールでクラシックのライブを観た。
70人以上の演奏者を指揮者が束ね、やはりスゴイ世界をつくりあげる。
が、ひとりあたり感動量は当然低いよね。
こんなものが優劣をつけるというわけではなく、
いろんな表現のしくみがあっていいと思うのだが、
とにかく談慶さんはピンでやっているのである。
終わって控え室を訪ねると、来社されたときの談慶さんに戻っていた。
舞台のうえで演じていたさっきとは別人で、
まるで普通の人なのである。
挨拶を交わしてそこから去り、一緒に観た副編の小笠原とチョイと一杯ということで、
談慶さんの噺を肴にうまい酒を呑んだ。
やつもえらく感動したようで、ライティングを担当することになった。
出かける前は理解できないのではないかと心配していたのに。
というのも、歌舞伎で寝てしまった経験があるそうだ(なんと罰当たりな)。
第2号の制作現場での出来事や想いなんぞを綴っている。
第1特集である“タメ年たちのリアル”に掲載した
立川談慶さん(P38~41)の記事について、第二回目。
実を言うと、暮れの押し詰まった21日に来社していただいたときの印象は
ちょっと「?」だった。
落語家という職業柄か、話の展開は早いうえわかりやすい。
ただ、あまり堂々としていないというか、
ホントに噺家なのかと疑問に思ったくらい普通な人だった。
談志師匠との話はおもしろい内容だったし、
下積み経験が長いというのも共感は呼べるだろうと、
この時点では取材対象のひとりに加えたという程度にとらえていた。
印象が180度変わったのが、1月16日におこなわれたライブでの姿だ。
落語はテレビで何度か観たことがあり、
悪い印象は持っていないものの
自分から進んで観に行くというものではなかった。
初めての体験というのは何にしろうれしいもので、
編集部員2人を誘い会場に向かった。
ただ、あの来社されたときの印象が強く残っていて、
少々疑っていた(失礼)のも事実だ。
前座が終わり談慶さんが登場した。
舞台というのはスゴイもので、どんなに親しい人でもこちら側からふれると大きく見える。
たとえば、すごく仲のいいうた歌いがやる小さなライブハウスでも、
ステージに立つと大きく見える。
ましてや彼はプロの噺家で、会場は国立演芸場だ。
大きく見えないはずがなく、
前回来社いただいた談慶さんとの違いに戸惑うほどだった。
大編集後記に続き、第2号の制作現場での出来事や想いなんぞを綴っていこうと思う。
まずは、第1特集である“タメ年たちのリアル”に掲載した
立川談慶さん(P38~41)の現場から。
発行して1ヶ月と少し経った12月5日のこと、メールをいただいた。
「立川談慶です。たまたま行きつけの整体院で貴誌を手にしました。
私はドンピシャの昭和40年生まれの落語家です。
大学を卒業後、株式会社ワコールを経由し、
まだバブルの色香残る平成3年に立川談志門下に入門し、
平成17年に真打ちに昇進しました。貴誌のような雑誌を待っていました」
うれしいじゃないの。
定期刊行を決定したばかりで、
特集もタメ年たちの声をたくさん集めるという方向で決まっていたから
タイムリーでもあった。
だが、申し訳ないことがいくつかあった。
まず、立川談慶さんというお名前を聞いたことがない。
もうひとつが、落語についてまったく明るくない。
大変失礼な話だが、あの立川談志師匠のお弟子さんだというのだから
それだけでも十分ネタになるだろうと判断し、取材依頼を返信してみた。
これが彼とのつき合いの始まりだった。
昨日書いたように、広告をタダで入れてしまうという
禁断の技もあったが、俺は、あっさりと却下した。
むしろ次号で広告営業に活かしてやろうと。
これほどクレイジーな雑誌をつくれるのだから、
広告面でもそれで押し通した方がいいのではないかという、
とてつもなくアホな発想である。
「つくってみたかったのですよ、広告のない雑誌ってヤツを」
と、強がってしまうのである。
これはある意味、ひとつの伝説がつくれるのではないか。
のちに大成功して、広告もジャンジャン入って、
ウハウハになったときに飲み屋で後輩とかに言うんだよ。
「2号さ、広告がゼロだったのよ、ヒック。そんときにさ、どうしたと思う?」
…。
ググッと間をつくり。
「ぜーんぶね、俺がさっ、つくっちゃったんだよねえ。ハッハッハ」
そう、伝説づくりなのである。
決して負け惜しみじゃない。
絶対に成功させると信じた以上、
中途半端で姑息な策におぼれるよりも、
大胆に目立った方がいいという作戦なのだった。
うん、すばらしいな俺ったら(泣)。
どうしても広告は入らない場合に、禁断の技もある。
“原稿を借りる ”と呼んでいるのだが、
ようするにタダでいいから広告載せませんかという、
恐ろしい作戦である。
効能としては、述べたとおり
誌面としてのリズムづくりができることと、
なんてったって恥ずかしくないことである。
この第2号を引っさげて、次号の広告営業にでかけるときがやがて来る。
苦労の末、やっとのことでアポが取れたとしよう。
「それにしても、この本広告がまったくないですねぇ」
この言葉の裏には
「ダメな本だなあ、きっと売れてないんだろうな」
との意味を込め、こんな本に広告を出しても効果はないなと
判断するのは当然といえば当然のことだ。
「では検討しますから」
と早々に帰され、後日電話を入れると
「今回は見送ります」
と言われる。
と、まあこんな筋道がつくられてしまう。
なので、せめて表まわりくらいは埋めておこうというのが
策としてはアリなのだろう。きっと。
2号で広告がまったく取れなかったことの開き直りを語ってきたが、
実は編集面での影響も甚大なのである。
雑誌広告は、それ自体が持つデザインなどの
クリエイティブワークがギュギュッと凝縮されている。
これを編集ページの間に挟むことで
独特のリズムがつくれるありがたいものでもあるのだ。
売上げになって編集面でもプラスになるだけでなく、
やはり雑誌にとってなくてはならない存在なのだよ(悲)。
たとえば今回だと、P31とP32の間に見開きで広告があると、
なんとなくホッと一息つけるリズムができる。
P126とP138は広告で埋めた方がやっぱりいい感じになる。
そしてなにより、雑誌広告の花形スターである
表まわりと読んでいるページに広告がない。
表紙にたいしてその裏側を表2(ひょうに)とよび、
裏表紙を表4、その裏側ページを表3と呼ぶ(うーん、ためになるねえ)。
これらになにかを作り込まなければならないということも、
編集長としてはヒジョーに頭が痛い。
というより、164ページすべてを編集でつくりあげるということなのだ。
全く広告が取れなかった第2号だが、
それでも俺たちには確信がある。
その確信のもとになる作戦もある。
名付けて
“話題になっちゃったらジャカジャカ入ってくるんだもんね作戦”
である。
これだけしっかりとしたターゲットを持つ雑誌が、
広告メディアとして活用しない手はない。
今は、聞いたことのない会社がやっている聞いたこともない雑誌だから
付き合う必然がない。
ところが見てろよー。
小さいが元気な会社がやっている、話題の雑誌になるのだ。
なんの宣伝も打たず、書店の棚で勝負しただけで“売れた”という実績がある。
ならば、この第2号では前述した通り、しっかりとしたアイデンティティを確立させて
いい雑誌つくりのラインに乗せてしまいたい。
そうすれば評判はきっと後からついてくる。
どんなに時代が変わろうとも、いいものは支持される。
いいものというあいまいな言葉をどんな要素で構成するのかということには、
時代やセンスも必要ではあるが、
シンプルにいえば一生懸命やったものは必ずなんらかの活路があるはずだと信じている。
一生懸命?
さらにあいまいな言葉だが、その通りである。
何かのせいにして頑なになったり、
力を入れるべきベクトルを見誤ったり、さぼったり…。
そんな落とし穴に入らなければ、必ず支持は得られる。
もちろん大前提として、コンセプトが世の中とまったくずれていたらダメだけど
創刊号で実績を上げているのだ。
必ず話題になってやる。
世界中の広告担当のみなさん、予算をたっぷり用意して待っていてねぇ(笑)。
つまり広告営業をやっている時間がない。
はっきり言って、編集作業が大詰めとなるこの時期に
編集作業と広告営業を天秤にかけたら、
やはりこの段階では編集作業にかたむく。
どころか、すべての時間を編集作業に当てたいくらいだ。
他の業務と兼務しながらの『昭和40年男』プロジェクトなのだから、
そもそも割りあてられる時間はあれこれ無理しながら捻出している状態で、
その上で広告営業までもやるとなると、肝心の雑誌自体の内容が思い通りにならなくなる。
そんなパワーが足りないなかでの営業活動が通用するわけなく、
第2号の広告収入はゼロとなってしまった。
じゃあなぜ1号は取れた?
たまたま、編集の内容と合致した企業が数社あり、とんとん拍子にうまくいった。
ラッキーだったのだが、そんなラッキーがそうそう続くわけもない。
得意技であるバイク業界にもお願いした。
このつきあいは絶大で、俺たちの創刊を暖かく応援してくれた部分もないといえばうそになる。
だが、そうそう頼ってはいかんなということで、この2号では提案しない。
紳士協定(?)みたいなものだろうか。
そして結局、収入ゼロということになってしまった。
驚愕である。
おそらく広告出稿ゼロで発行している雑誌なんてないはずだ。
雑誌の大きな収入源である、広告がまったく取れなかった。
バイク業界を長年かけて攻略してきた俺たちだが、
それ以外の業界にはほとんどつてがない。
大手代理店とのビジネス上の取引もないから、
広告営業はまず直接企業に電話をかける(おう、なんと原始的なんだ)。
「新創刊誌なのですが、広告ご担当の方いらっしゃいますか?」
これでほとんどの企業は断わる。
「雑誌はねえ、今ほとんどやっていないんですよ」とかね。
その企業の雑誌広告を見ながら電話しているのに、
なんとも悲しいセリフだったりする。
ここでも無名出版社の悲しさも感じる。
大手だからラクに広告営業ができるとは言わない。
どんな雑誌だって大変な苦労をしながら営業活動しているはずである。
だが、俺たちにはその苦労をするチャンスさえくれない。
このご時世に、聞いたこともない出版社の話を聞いている暇なんぞないというのが
ホンネのところだろう。
景気低迷下で人減らしが進行していて、大概のところは以前より忙しい。
さらに、予算も厳しくなっていることもいうまでもなく、
削ることはあっても新規で加えていくということは難しい。
「資料を送ってください」
こう言ってくれるところがたまにある。
ここでもビックリさせられるが、
メールでなくFaxで送るようにと指示を受ける。
想像するに、メールアドレスを教えると次々と提案を受けることになるから
うざったいということなのだろう。
だからFaxなんだろうね。
さらに驚愕なのは担当者の名前すら教えてくれないところまである。
言い訳になるが、こっちには時間がない。