【懐かしの名盤】レッド・ツェッペリン『Led Zeppelin 2』(2/7)

ブログ特別不定期連載記事『懐かしの名盤ジャンジャカジャーン』だ。音楽と密接に生きてきた昭和40年男にとっての名盤を、僕の独断でセレクトしている。ここまで、クイーン、ストーンズ、ロッド、RCサクセションから、それぞれ1枚ずつをセレクトしてきた。5枚目はついに王者ツェッペリンである。1枚に絞るなんてできないと悩み抜いて『Led Zeppelin 2』とした。昭和40年男とレッド・ツェッペリンのつきあいは? 中2のときに、現役ラストアルバムとなった『In Through Out Door』をリリースして、翌年の1980年に解散してしまったから、あまり馴染みのない方も多いかもしれない。

ツェッペリン編の第2回目となる今回は、70年代後半から80年のほんの数年に巻き起こったロック界の大変革を追いかけたい。なぜならレッド・ツェッペリンはその中心にいたからだ。

76年の11月に、ザ・バンドの解散コンサート『ラスト・ワルツ』が開催された。ボブ・ディランやエリック・クラプトン、マディ・ウォーターズなんてブルースの大御所まで引っ張り出して行なわれた祭典は、その後の激変を予兆させるようなビッグイベントになった。解散をまるで祝うかのような楽しそうな姿とともに、クオリティの高い演奏を収めたライブ映像が、マーティン・スコセッシ監督によって映画化されている(名作!!)。その約1ヶ月後に『ホテル・カリフォルニア』が発売になると爆発的な大ヒットになった。本誌のvol.7に掲載したとおり、アメリカ社会への提言でありながら、ロックシーンへの痛烈な批判とも取れる内容であった。かつて愛と平和をロックで成し遂げようとしたウッド・ストックの精神が、この頃のミュージックシーンにはなくなり、ビジネス至上主義となってしまったことに対する批判と解釈できた。事実、この頃のロックはビッグビジネスとなって肥沃の一途をたどっていた。

そこにアンチテーゼの潮流が生まれた。反骨芯の固まりが噴出するように、突如としてわき起こったのがパンクムーブメントである。鋭利な刃物のような危うさで、世の中を席巻していくがムーブメントはあっけなく終焉した。粗野過ぎたうえ、ここでも一部では巧妙にしかけられたビジネスが絡み、その香りに若者たちの心は離れていったのである。

一方では、ディスコサウンドブームが巻き起こっていて、エッセンスを取り入れる大物が続々出始めていく。79年のキッスによる『ラビン・ユー・ベイビー』や、ロッド・スチュワートの『アイム・セクシー』などだ。そこにニール・ヤングは怒りをぶつけるかのごとく『ヘイヘイ・マイマイ』で「Rock’n’roll is never dai(ロックは絶対にくたばらねぇ)」と歌っている。さらにこの曲の歌詞は「It’s better to burn out than to fade away(錆びつくのだったら燃え尽きる方がいい)」とのメッセージを出した。この言葉は、ニルバーナのカートコバーンが自殺したときの遺書に綴られたという。

こんなにもドラスティックに動いている音楽シーンの中で、ツェッペリンは眠っていた。76年の春にリリースした『Presence』以降、活動は静かなものになっていった。新作も出ないまま3年以上の月日が流れ、変化したシーンのドアの外にいた大物が、そのドアを開いて中へとのタイトルがついた『In Through Out Door』が、79年に発売されたのである。が、繰り返すがまるっきりの駄作だった。翌80年にはジョン・ボーナムの死によって12月に王者解散の発表があった。直後の12月8日にジョン・レノンもこの世を去った。ニール・ヤングの叫びが虚しく感じるほど、儚くも感じるシーンの終焉のように思える。ビートルズからセールストップの座を奪ったのが69年の終わりだった。ロックの黎明期で何でもありの百花繚乱時代から、この奇妙なストーリーへと突入していき、やがてツェッペリンは輝きを失った。そのまま再浮上することはなく、70年代のロックシーンとともに幕を閉じた。これらのすべては偶然である。だがあまりにもストーリーチックに事実が並んでいくのは、その時代の象徴でもあるからだろう。そこにはレッド・ツェッペリンの栄光と終焉があまりにも大きく関与しているのだ。

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