終戦の日。

遠い夏の今日、8月15日正午に天皇陛下からのお言葉が傷ついた国民に届けられた。我々が生まれる20年前のことだから、66年が過ぎたことになる。まったく機能していない政府のおかげで、隣国たちとの騒ぎが少ないのは幸いなことだと考えるべきなのだろうか。

僕たち昭和40年男にとって、戦争は当然のことながら実体験になく、教育の中に組み込まれたものだった。唯一、戦地から戻った英雄たちが実体験といったところだろうか。手あかに染まった学校の戦争教育など、あんなにバカバカしいものをよく教育と言ったものだと今ならわかるが、習っている当時にそんな想いはなかった。今も続いているのだからまったくもってしてあきれるばかりである。僕たちの戦争観は、親の育った環境で左右される部分が大きい。白が黒になり黒が白になった時代を生きた我々の親たちがいる。だから親の年齢によって戦争観がまったく異なり、その影響下にいる僕たちはある意味おもしろい世代だ。まったく話題に上らなかった家庭もあるだろうし、その逆もいるだろう。僕の親父は昭和7年生まれで、ギリギリで戦地に行けなかった。この行けなかったという表現が、僕の育った環境なのである。「お国の力になりたかった」とちょくちょく口にしていた。「俺が行ったら勝っていた」とまで小学生相手に口にしていたのは、後に考えてみると本心というよりも、教育の要素が強かったのだろう。もうずいぶん前に逝ってしまい、今さらながらじっくり語り合いたいなと思う。

親父は日本が大好きな男だった。戦国武将も近代の経済人たちも、そして軍人たちもすべて素晴らしい日本人なのだと賛美していた。終戦の日の頃になると、日本が負けたことをいろいろと話してくれたものだ。その横で昭和15年生まれのお袋は、いつも戦後の貧しさを話していた。お袋には戦争に負けたことの悔しさのような感情はなく、戦後の物のない苦労が戦争体験だったようだ。まったく噛み合わないはずの戦争観ながら、聞いている息子にとっては妙にバランスが取れていた。もしかしたらお袋は親父の言う日本は強かったとか、役に立ちたかったなんて言葉には異論があったのかもしれない。それでも昭和の母親は、父親の意見をキチンと立てたのだろう。それは亡くなって何年も経つが変わっていない。親父のイデオロギーは我が家でいまだに保たれているのである。

本来ならば今日は靖国神社へ行くことにしているが、今年はどうにも仕事が詰まっていて行けなくなってしまった。心は靖国へ行かせて、空に向かって偉大な先人たちに手を合わせようと思う。

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