大編集後記その六。『ぴあ』に育てられた俺たち。

昨日はちょっと暗かったから、今日は元気に最新号のPR『大編集後記』とさせていただこう。

連載特集の『夢、あふれていた俺たちの時代』では昭和47年、多くの昭和40年男が小学生になった年をピックアップした。この中の検証記事で情報誌『ぴあ』の創刊を取り上げている。先日ここで解説した『ぎんざNOW!』同様、東京ローカル話で恐縮ながら、この雑誌によって多くの昭和40年男の感性が研ぎすまされたことを考えると、ここで取り上げておかない手はないと記事にした。創刊当時のスタッフで、2代目編集長の林 和男さんに話をうかがいページを構成している。当時の苦労や努力の様子がパワフルに伝わってくる内容だから、ぜひ手に取ってほしい。

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僕と『ぴあ』との出会いは中学時代だった。映画好きにとって貴重であり、ヘビーユーザーたちを形成していた。学校に持って来てそれを数人で囲んで、どれを観ようか、あれにしようなんて会話がちょくちょく聞かれたものだ。映画にそれほど強い興味を持っていなかった当時の僕は、「ああ、ナウでヤングだな」とつぶやきながら『ぴあ』の恩恵を知らずにいた。そんな僕にとって突如として重要な存在になったのはロックバンドを初めたころからだ。高1の時に初めてライブハウスに出演した。するとそのハコのスケジュールに自分たちのバンド名が印刷されているじゃないか。プロの仲間入りをしたような気分を味わい、ものすごく嬉しかった記憶が昨日のことのようによみがえる。その後は、ライブハウスそのものの情報源として、また自分たちのブッキングの記録としても購入を続けたのだった。

もう少し成長すると、仲間に演劇人が混じってきた。すると彼らにとっても『ぴあ』はロックバンドの僕らと同じような存在であることを知った。都会の薄暗い密室で表現を繰り返す双方にとっては、貴重な情報源であるだけでなく、希望への架け橋でもあったのだ。演劇人たちは紹介記事が大きく取り上げられることを夢見たそうで、それは僕らがレベルの高いハコに印刷されるのを夢見たり、もちろんいつか武道館ライブ(!?)の紹介記事を書いてもらうことだったりもした。雑誌という大好きなメディアだからこそ、そこに夢を見たのだ。

『ぴあ』がそんな存在だったというビッグスターは数知れず。逆に多くが夢やぶれて今を生きているのだろうが、あの日情熱のすべてを注ぎ込んで前へと進んだ経験はきっと今をカタチ作っていることだろう。その力をくれた『ぴあ』に今さらながら感謝したい。だってね、ホントに大変な創刊から創刊直後だったことをこのページが教えてくれるもの。さあ、まだ手に取っていない方は今すぐ書店へGoだ。

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