親の死。(3)

2010 年 11 月 25 日 プロデューサー コメント

重いテーマで3日も続けてしまったが、親の死は昭和40年男にとって近しい問題であると思う。
思いのほか長くなってしまったが、今日で終わりですよ。

 

親父は家に帰ってきた。24時間も経たない、1日前の今はまだ生きていたのに
こんなにもあっけないものなのだ。
近所の方々が慰めてくれる、下町のつきあいだ。
「明ちゃん、お母さんをよく見てやってね」
世話をしてくれた葬儀屋さんは、地元にある家族だけでやっているような小さなところで、
小さな電気屋を営んでいた親父の式を依頼することになったのは偶然とはいえよかった。
初めて出す葬儀について細かく丁寧にケアしてくれ、
また当然ながら地元のことをよく知っているから心強いのだ。
結果としていい葬式になったと思う。

 

いざというときにどうなるのか? そう思っている方も多いのではないだろうか。
でもね、葬儀屋さんがなにからなにまで教えてくれるからそこの心配はまったくないと思っていいだろう。
ただ、いくつもの選択はしなければならない。
棺桶や祭壇のランクとか、お清めの料理の数とか、香典返しとか。
ぐったりと来ているお袋に手間はかけたくないから、喪主である自分が踏ん張るのだった。
とはいえ、叔父の助けをずいぶん借りたよ。
たとえばね、棺桶とか祭壇ってピンキリでやっぱり高いものにしたいなとか思うわけですよ。
そこに「燃やすもんなんかどうでもいいだろ」とか、
冷静な経験者の声によって棺桶にはお金をあまりかけなかった。
その分は、来てくれた方のために料理を奮発しようとか、ずいぶんと助けられた。
戒名は浄土真宗だからずいぶんと安価であるということをやはり葬儀屋さんが教えてくれ、
確かに後に追いかけていった女房の父親の半分よりはるかに低かった。
会社関連への対応は、創業からの相方にすべて一任した。
バタバタと次から次へと案件が舞い込むものの、パニックというわけではなくこなせていけた。
季節の変わりめだからか、斎場が混んでいて通夜までまる3日、親父は家で過ごした。
ちょっと暖かいからお腹にのせるドライアイスを多めにしておこうと、葬儀屋さんが運んできてくれる。
なんだかかわいそうな気分になるのだが、これはでも普通の感覚だ。

 

聞きつけた方が次々と来てくれる。次の方が見えると前の方が帰ると言った具合で延々と続いた。
やはり創業の相方が来てくれ、互いにキチンと挨拶を交わしたのは泣けたよ。
来客の方には酒を振る舞い、弟と僕は3日間けっこう呑んだよ。
夜も遅くなると客が途切れて、家族だけになるとまた大きな悲しみがふってくるのだ。
顔色が悪いからとお袋がファンデーションと口紅で化粧すると、なんだか妙にキレイになってしまい、
本当に大笑いしてしまいながら涙が止まらなかった。
親父が出演したラジオ番組のテープを流したり、こういう悲しみを
世の中の人がみんな乗り切っていくのかと思うと、なんだかそれだけ尊敬したくなる気分だった。

 

通夜には大勢の方が見えてくれた。
親父は電気屋が斜陽であると、この15年くらい前から将棋の駒を彫り始め
ずいぶんと高値で取引されるまでの駒士になっていた。
雑誌の表紙も何度か飾り、駒づくりの会を組織して全国に100人以上のお弟子さんに指導していた。
それ関連の方と僕と弟の関係者と含むと、ものすごく大勢の方が親父と別れにきてくれた。
うれしくて、そして悲しくて何度も涙が流れてしまったが、人には見せないようになんとか葬儀をこなした。
式をすべて終え、最後のご挨拶は世の中すべてに向かって礼を述べた気分だった。
大好きだったお酒を一升、親父の体にふりかけ棺桶を閉じ、あっという間に骨になってしまった。

 

つらく悲しい時間が過ぎ去っていった。でも家族は悲しんでばかりいられない。
葬式というこの儀式の価値とか、あり方とかそんなものを考える間もなく、ただ懸命に式を運営した。
大きな大きな疲労感と改めての悲しみがずっしりと残っていた翌日は、
抜け殻のようになったまま1日休み、僕と弟は社会へと戻っていったのだ。
社会は親父の死なんかおかまいなしに進んでいくから、
そこに身を任せていれば悲しみは忘れられるのだった。

 

おしまい

  1. コメントを募集しています。