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浅草で過ごした22年。

2013 年 4 月 15 日 プロデューサー コメント

浅草秘密基地

 

今日は月曜日。ということは好例の『浅草秘密基地』じゃないの。今や大阪にも支店を構える秘密基地は、創刊第2号に初めて告知を掲載してスタートした。読者さんと編集長である僕や編集部員との交流の場にしたいと始めたのだ。昭和40年男が夢中になった事やモノの曖昧な記憶を皆さんとダラダラしゃべりながら掘り起こすのは、本誌の制作現場に少なからずいい影響を与えている。このイベントと呼ぶにはずいぶんとシンプルなものながら、この4月に3周年を迎えたのだ、パチパチ(すっかり忘れていたが)。2010年の4月6日に記念すべき第1回を開催して、店が休みでない日はほぼサボらずに続けてきた。部数が伸びているのだから、来場者もうなぎ登りとなってよさそうなものだが、ほとんど常連だけという夜も多々ある。それでも続けてきて良かった。誌面への効果だけでなく、ちょっとこっ恥ずかしいがいい友が何人もできた。この会場以外でも遊びにいったり、今年は一泊旅行に行こうかなんて話も出ている。この歳になって、中学生のような会話を楽しみながら、なんのしがらみも無い付き合いが始まるのは、ありがたいことである。ぜひ、お気軽にお越しください。

舞台となっている店『ショットバー フィガロ』との付き合いは長く、もうかれこれ22年目になる。人生においてもっとも長い時間を過ごした呑み屋であり、おそらくこれからを考えても、ここを超える時間を過ごすような店は現れないだろう。キッカケは、友人がいいマスターがいると連れて行ってもらったことで始まった。ショットバーとの看板を掲げているが、そこはマスターの人柄と浅草という土地柄か、客同士の仲が良くて大宴会状態の店内だった。僕もその友人を介して、客同士の輪に加わったのだ。ひょんなことからバンドで歌っているとの話になり、ならばと近所の常連客がギターを持ってきて歌えとなった。弾き語りは得意でなかったが、ここで引いたら男が廃ると全力で歌うと拍手喝采となった。オリジナルもやれとなり、思いがけずライブを展開できていい気分で家路についたのだった。

少ししてある日、いよいよメジャーレーベルが相手してくれることになり張り切って出かけた。リハーサルを終えて待っていたのは、レーベサイドからのキツイアドバイスだった。
「もっと抑えて歌え」
今だったらその意味はわかるが、当時のバカなロック野郎の頭には理解できなかった。120%で歌うことがロックであり、汗を吹き飛ばしながらライブが終わったらなにも残っていない程のエルネギーを放出するものだと、15歳のときからそう信じて続けてきた。だが、夢憧れていたレーベルからのアドバイスは絶対である。スプリングスティーンも最初は好きにやらせてもらえなかったと、その言葉をのみ込んだ。そしてここでフッと思い出したがフィガロのマスターだった。1人で店へ行き、この店で歌わせてくれないかと頼み込んだ。ギャラはいらない。ただ、うるさいかもしれないけれど全開で、好きなように歌いたいことを伝えると、どうぞやってくれとなり、そこで毎週月曜日は比較的暇だから、少しは客寄せになるんじゃないかと始めたのだった。26歳のときだった。

そのまま店にいつくようになり、お客さんの前で歌うことをずっと続けてこられた。これは僕の人生にとって大きな貯金になった。多分、ここが無かったら今のレベルで歌えなくなっていただろう。せいぜいたまにカラオケに行って「ああ、やっぱり歌はいいな」なんて、爺さんみたいになってしまっていたのに違いない。面と向かっては照れくさいから言わないが、20年以上の付き合いをいただいているマスターには深く感謝である。

 

 

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