死について考える。〜その8 俺が殺した〜

2004年の春のことだった。
体重は高校時代にまで戻せた。
これなら堂々とナオキに会えるし、ロックもできる。
この春の繁忙期が過ぎたらヤツに話してみよう。
きっと腕はさび付いてしまっただろうが、なに、スグ戻るはずだ。

4月19日、ヤツが首をつった日は九州にいた。
東京に戻って数日後、かつてのバンドメンバーから電話が入った。
 「おお、ずいぶんと久しぶりだな」
 「ああ。ナオキなんだけどさ」
 「うん、どうした?」
 「死んだよ、首つった」

もう真っ暗で、仕事も手につかないし飯を食う気にもならない。
聞くともう葬儀は終わっていて、連絡もろくに回らなかったらしく、
バンドのメンバーも同級生も知らないままだったそうだ。
さぞ、寂しい式だっただろう。
いろんなことを想い出し、いろんなことを後悔した。

この日は弾き語りの日で、想い出の曲をいくつも歌った。
知られれば甘えるから、弾き語りの時間が終わるまでは
ナオキのことは誰にも言わずもくもくと歌った。
終わって
「実は気がおかしくなりそうなんだよ」
とここのマスターや常連客に話した。
心配した連中が朝まで付き合ってくれた。
俺にとってはこの日が葬式で、浴びるように呑んだ。
「俺が殺した」と何度も叫んでいたことが記憶に残っている。

翌朝、酒のニオイをプンプンさせていただろう俺は家に着くなり、
ヤツとプレイしているビデオを取り出し、女房にヤツのことを告げた。
女房もキーボードでバンドに参加していたころがあり、ナオキの存在はやはり大きい。
また浴びるほど呑んだ。
涙というのは枯れないものなのだなと思うほど泣き続け、涙のスジが真っ赤になり痛かった。

俺が会いに行っていれば、絶対にこんなことにはならなかったはずだ。
そしてそれ以前に、ひきこもるようになってしまったのは、
間違いなくあのレコーディング前後の何かが要因となっているのだから、
やはり俺が殺したことになると責めた。
偶然書き上げた曲中の
“俺たち出会わない方が幸せだったのかもなあ”
というフレーズがそのままキツイ現実になってしまった。

通夜に出たかったと思われる人間に次々に連絡を取り、
4日に分けて手を合わせにいった。
その中には最後の演奏をした野田浩平もいる。
2人で浴びるほど呑み「俺が殺した」と泣き崩れると「それは違う」と言い続けてくれた。

どんな死より、自殺で逝かれるのは痛い。

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