忍岡高校、1年G組クラス会。

なんちゅうローカルな話だと笑われそうだが、32年前のクラスメイト一同が、学校のあった東京秋葉原に集った。幹事がよく頑張ったおかげでクラスの2/3程度が集まり、昔話に花を咲かせたのだった。なぜ1年時のクラス会なんだと突っ込んだところ、担任教師が今年定年を迎える。しかもこの学校に長く勤めた彼にとって、僕らのクラスは最初の担任クラスだったとのこと。なるほど、聞けば頷ける理由であり『昭和40年男』編集長としては有効な調査ができるだろうと、張り切って出かけてきた。

僕にとって高校時代は音楽活動がメインになっていて、学校はバイトと練習に明け暮れるための、睡眠充電の場だった。放課後クラスメイトと遊びに行くなんてのもほとんど無く、ゲームセンターや茶店に寄る時間もほとんど捻出できない。僕の青春暗かったのだ(笑)。それでなくても30年以上の月日が流れていて記憶はかなり曖昧で、はたしてクラスメイトを覚えているだろうかと不安とともに乗り込んだ。だが多感な頃の記憶というのは引き出しにどっちゃりとしまってあるもので、出てくる出てくる想い出の数々とともに、それぞれと過ごしたセピア色の画像が断片的ながらよみがえる。

小中学校までは、ごく狭いエリアに育った者同士の集団であったが、高校は世間を見た気がした。足立区には畑がたくさんあることを知り、新宿区のヤツらはもんじゃ焼きを知らない。大田区や品川区のヤツらはなんとなく気品がありやがって、遊ぶエリアや着るものなんかもちょっと違っていたとか。そうそう、たくさんのカルチャーショックを受けながらも、このクラスの文化を練り上げるかのごとくコミュニケーションしていた日々だった。だからこそ、想い出がしっかりと根を張っているのだろう。ひとつひとつを掘り起こしては、ギャーギャーと爆笑のまま時間が過ぎていった。

つらい話もたくさんあった。離婚や死別などの夫婦や家庭環境の問題。景気による仕事環境の変化。精神的に追い込まれての病などなど、順風満帆なヤツなんかほとんどいない。みんな苦労や傷を背負っていて、でも心から言葉を交わし合えるのは、互いに何も鎧を付けていない時期に語り合った友だから。人生でもっとも多感な時代を共に生きた仲間ってのは、こんなにもかけがいのないものなんだなと改めて知った次第だ。「へーっ、お前とお前つき合っていたんだ」とからかったつもりが「知らなかったのは北さんくらいじゃないの」って、やっぱりロックに魂を奪われていたんだなって再確認させられた。よくよく考えれば、僕のヘタクソな歌のチケットを無理矢理買わされた連中であり、僕の音楽活動のスポンサーだったのだな。おかげで、今も細々と歌を続けているのだなと、みんなと会ってみて初めて感謝の気持ちになったバカな僕だ。そして「細々と続けているんだ」との言葉に「それはスゲーうれしいなあ」と返されたのには、一瞬うるっと来たのを懸命に我慢したのだった。

ひとつ驚愕の事実、大問題が浮上したのだった。僕自身がアナウンスした人間以外誰1人として『昭和40年男』を知らないこと。ウギャーッ、どうなっとんのじゃ。逆に考えれば、まだまだ伸びしろはあるのだなと考えを転換したものの、正直「北さんがつくっているあの雑誌おもしろいよね」との言葉をいくつかかけられて、涙がちょちょ切れる予定をしていたのだが…、中止となった。

きっとこの集いはつづくだろうとの、笑いにあふれた会だったが、前述のとおりこの歳で集まることの背景には、いろんな種類のたくさんの涙がある。でも、それを渇かしてくれるもっともいい薬が旧友の存在なのだろう。みなさん、同窓会はいいものですよ。って、僕は絶対に幹事なんかやらないが。

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2件のコメント

  1. 昭和40年男、知らずしてすみませーん、、
    でもこれから愛読します!
    なんたって同級生が編集長なのだから、愛すべき雑誌だよね。
    会社も平成生まれの人間が入社し、『昭和の香り』がするって言葉が飛び交う昨今
    40年生まれの私たちって二つの時代を背負って生きていかなきゃいけない多感な世代だと思う。
    いろいろ悩みが出るのはこんな背景があるからでしょうか・・・
    でも、編集長、
    あなた本当にロックな高校生だった。
    チケット買って見に行った私、記憶に残ってるのは現奥様がキーボードを叩いていたことだけ。
    許せー

    • 僕のすばらしい歌唱を忘れたとは、許さん!! でも、初の同級生レスだから水に流しましょう。ありがとうございます。

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