宮城県から、ただいま帰りました。

昨日早朝に東京を出発して、宮城県の名取地区から取材をスタートさせて北上しながらネタを拾い、つい先ほど気仙沼での撮影を終えた。カメラマン武田の運転で東京へとひた走り帰ってきた。ふーっ。何度行っても被災地取材はあまり味わったことのない、なんとも重たい疲れを感じる。

震災後の5月11日発売号から、今年の3月10日発売号まで連載を続けてきて、ここからは不定期連載とすることにした。1年経ったことと、進捗のペースが冬くらいから急に鈍化したことが理由だ。だが、記憶から風化させてはならないのと、この復興は我々昭和40年男にとって重大な責務だととらえ、小さな力でもできることをしていくべきだとの想いを込め、これからも不定期で連載を続けていく。

隔月発行ペースなので一度空けると4ヶ月ぶりとなる。どれほどの変化が起こったのか、いい意味で期待を込めて入ったのだが、結果からいくとやはりほとんど進捗は見られず、問題は大きくなる一方だとの印象を受けた。長引く復興への取り組みや将来不安、そして仮設住宅の環境などなどで、傷ついた心がますます痛んでいる。加えてがんばろうとしている漁業や飲食関係者に福島原発による風評被害が重くのしかかる。塩竈の寿司店で聞いた話は、かつては団体客を乗せたツアーバスが月に20台以上来ていたのに、震災後は3台くればいい方だとのことだった。泣く泣く従業員にやめてもらったと、ご主人は唇をかんだ。漁業を営む爺さんからは、赤貝の価格が1/3に下落して、ヒラメは値がつかないとの話を聞いた。すべてを津波に流されてしまい、それでも一念発起して2千万円の船を購入して一歩を踏み出したのに、この仕打ちはひどすぎる。仕事を再開させたタメ年男は、職を失ったまま働けない人が多いことが大きな問題だとしていた。彼らの心の傷は悪化するばかりだとも。がんばろうと言い続けてきたが、力尽ききそうな局面を迎えている人が多いのだ。去年よりも傷は深いことを、我々は理解して復興支援に気持ちを込めたいものである。

毎日続けているこの編集長のつぶやきだが、あれれ、日付が変わってしまっているじゃないか。まあ、日の出前だから勘弁してあげましょう。ではおやすみなさいといきたいところだが、急遽決まった明日のインタビューの準備をせねばならぬ。作品を見たり資料を読み込んだりと、とても寝かせちゃもらえない。まったくタフな毎日を運んでくれるぜ『昭和40年男』の制作現場は。

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